今、ネット上で妖怪「アマビエ」が大人気
こんにちは。チアフルライターのやまさんです。
今、インターネット上で「アマビエ」という妖怪のイラストを描いてSNSなどで公開するのがちょっとした流行になっています。そのイラストの中に妖怪漫画家の水木しげる先生が描いたものもあり、水木先生とアマビエをはじめとした妖怪がにわかに脚光を浴び、メディアでも取り上げられるようになりました。
「アマビエ」です。水木しげるの原画を撮影しました。
— 水木プロダクション (@mizukipro) March 17, 2020
江戸時代、熊本の海に現れ「疫病が流行ったら私の写し絵を早々に人々に見せよ」と言って海中に姿を消した妖怪、というより神に近い…もの。
現代の疫病が消えますように。 pic.twitter.com/0P7HfyRe8h
水木しげる先生は漫画家になる直前まで紙芝居作家として約7年間阪神沿線で暮らしていました。今回のチアフルライター通信では、水木先生が雌伏期を過ごした神戸・西宮時代の足跡を辿ってみたいと思います。
アマビエブームの発端はTwitter
画像:アマビエの出現を伝える弘化3年4月(1846年5月)のかわら版
京都大学付属図書館収蔵
弘化3(1846)年、肥後(熊本県)の海中に毎夜光るものが出た。役人が言ってみるとこの絵のようなものが現れ「私は海中にすむ“アマビエ”というものである」と名乗り「当年から6か年の間諸国豊作である。しかし、病気がはやったら、私の写しを早々人々に見せよ」と言い残し、再び海中に潜ったという。
2月29日Twitter上に「新型コロナウィルス対策」というコメントとともに初めてアマビエのイラストを載せたのは漫画家・イラストレーターのしげおか秀満さん。これに呼応してプロ・アマを問わず多くの漫画家やイラストレーターがアマビエのオリジナルイラストをネット上にアップし始めました。神戸在住のイラストレーターサタケシュンスケさんも3月10日にTwitterに可愛らしいアマビエのイラストをアップしています。
3月6日には京都大学附属図書館がTwitterで江戸時代に描かれた妖怪アマビエのオリジナルとなるかわら版を紹介しました。さらに3月16日に水木プロダクションのアカウントが水木しげる先生の描いたアマビエをTwitterに掲載されると、瞬く間に拡散され、4月23日現在で約97,000リツイート、約198,000いいねを獲得しています。
アマビエは世界の人々にも知られるようになり、4月9日のWeb版ザ・ニューヨーカーで「日本発、パンデミックのマスコットキャラクター」としてアマビエが紹介されました。甘酒や和菓子をはじめとしたキャラクター商品やアマビエを使用したポスターなども次々と作られており、現在ちょっとしたアマビエブームが起きています。
昭和・平成の妖怪ハンター、水木しげる
写真:「完全版マンガ水木しげる伝」 水木しげる著 講談社漫画文庫
水木しげる先生は幼少期「のんのんばあ」という、妖怪に詳しいおばあさんから妖怪学の英才教育を受け、戦後紙芝居作家や漫画家として活躍する一方で妖怪ハンターとして日本や世界の各地へ赴き、妖怪の情報収集に情熱を燃やしました。
民間伝承である妖怪にはその姿形がわからないものも数多くいます。水木先生はそうした形のない妖怪に形を与え、『ゲゲゲの鬼太郎』『悪魔くん』といった漫画のキャラクターとして子どもたちに紹介し、「妖怪漫画」というジャンルを確立しました。なかでも「鬼太郎」シリーズは1965年に週刊少年マガジンに掲載されると徐々に人気を呼び大ヒット、2013年までの約40年間にわたりシリーズ作品が発表され続けました。
鬼太郎はテレビ界にも進出し、1968年に放送されたTVアニメゲゲゲの鬼太郎は日本で初めて妖怪ブームを巻き起こしました。ポケットモンスターやデジモンアドベンチャー、妖怪ウォッチなどの妖怪ものの源流にあたるこの作品は、1968年から2018年の間に6度もアニメ化され、第5シリーズにはアマビエが初登場しています。
水木先生は妖怪研究家として妖怪辞典や妖怪画集も発表しており、アマビエは1994年に出版された『図説 日本妖怪大全』などで紹介されています。
水木しげるの画家・アーティスト人生が始まった新開地水木通
写真:新開地水木通にある水木湯。震災で被害を受け再建されたため、当時の面影はないとのことですが、今も頑張って営業されています。
昭和21年、24歳のときに終戦を迎え、ニューブリテン島から帰国した水木先生は、戦地で失った左腕の治療後、しばらく東京で魚の配給業や輪タク業などで糊口をしのぎました。しかし、いずれも軌道に乗らず、3年後実家のある境港に帰郷することに。その道中でたまたま泊まった神戸の安宿の女主人から「この家を買わないか」ともちかけられ、父から借金をし購入します。
水木先生はこの家を「水木荘」と名付けアパート経営を開始。この水木荘の住人の中に紙芝居絵描きをしている人がおり、水木先生はその人に製作技術を習い、プロの絵描きとしての第一歩を踏み出します。街角で駄菓子を売って紙に描いた一綴りの絵を見せながら情感たっぷりに物語りをする紙芝居屋は、当時子どもたちに人気の商売で、現在のTVアニメや漫画のようなものでした。
この時期、絵を納品していた阪神画劇社の経営者から本名を呼んでもらえず「水木さん」と呼ばれていたことから水木しげるというペンネームになったそうです。
水木湯のご主人森川テツ子さんは3代目の経営者です。森川さんのお話によると、水木先生が水木湯に通っていたのは、2代目の伯父さんが番台に居た頃だそう。水木湯の東隣奥にあった水木荘から、水木先生が水木荘と水木湯の間の細い路地を通ってやってくる様子がよく目撃されていたようです。水木先生は昭和24年から約4年間この水木通に住んでいました。
アパート経営を諦め、西宮市今津へ引っ越し
写真:現在の今津商店街。向かって左側のパチンコ屋さんの一角に水木先生の家がありました。街頭の看板に「ゲゲゲの鬼太郎 水木しげる邸跡」と書いてあるのでわかりやすいです。
水木先生は昭和28年に新開地の水木荘を売って西宮市今津に2階建ての一軒家を購入し、母、兄一家との同居生活を始めます。この今津時代に紙芝居「空手鬼太郎」を制作し、甥っ子をモデルとした鬼太郎や目玉おやじが誕生しました。
今津商店街のそばにある珈琲館初音屋という昔ながらの喫茶店。マスターの立花吉博さんは、お店で今津小学校の同級生で幼馴染の曲江(いりえ)三郎さんとともに約6年前から「今津歴史塾」を開いています。
「『ガロ※』を読んでいたら、水木先生の漫画が載っていて、そこに今津のことが描かれていたんです。その後、兵庫県立美術館のかたから、水木先生の今津での生活を詳しく聞く機会があり、そこから今津の歴史に興味をもつようになりました」一方、曲江さんは道路沿いなどに建つ古い道標を訪ね歩くのを趣味としていたそうで、そこから今津を中心とした歴史塾を開くことを思いつきました。
今津歴史塾の第5回では「水木しげるの今津時代」が取り上げられました。曲江さんが作成したテキストには、今津で暮らしていた頃の水木先生の足跡を示す当時の新聞記事や住宅地図など数多くの資料が掲載されており、読み応えのあるものになっています。「私が昭和25年生まれで、水木先生が今津に住んでいたのは昭和28~32年ですから、ひょっとしたら道端ですれ違っていたかも知れませんね」
※注:『ガロ』1964年から2002年まで刊行された漫画雑誌。メジャー雑誌とは一線を画す個性的な作品が数多く掲載されており、比較的年齢の高いマニアやサブカルチャー好きな人々から支持されました。
写真:初音屋のマスター立花吉博さん。おすすめは初音家のオリジナルブレンドコーヒーです。
写真:開店42周年記念の新メニュー「目玉おやじのトースト」。黄身を崩しパンにつけていただきます。