沿線お役立ちコラム

私達の命と健康を守る東水環境センターを探検【下水の浄化とまちの衛生管理編】@魚崎

下水処理場はまちの守護神だった 東灘処理場の3つの大切な仕事を見学

チアフルライターやまさんです。

酒処灘五郷の一つである魚崎郷には太田酒造、宝酒造、浜福鶴銘醸、櫻正宗といった有名な酒造所が集まっています。そこを抜けて魚崎運河まで出ると、神戸市内でも最大規模の下水処理場である東灘処理場・東水環境センターがあります。魚崎運河でボートを漕いだ時、水がとても綺麗だったことに気づいたやまさん、下水がどのように処理されているのか学びに東水環境センターに併設されている「神戸 下水道の歩み館」を訪れました。すると、この施設が私達の暮らしと安全を守るため、驚くほど多岐に渡る仕事をしていることがわかりました。

 

今回は、東灘処理場が私達のまちを守るために遂行している大切な仕事「下水の浄化とまちの衛生管理」「災害や浸水からまちを守る下水道の管理システム」「地球温暖化を食い止める持続可能な再生エネルギープロジェクト」の3つについて詳しくお伝えします。

下水の浄化とまちの衛生管理 水をきれいにする6つのステップ

写真:「神戸 下水道の歩み館」では、施設見学の前に下水処理の仕組みなどについて約30分の講義があります。この日は11名の見学希望者が集まりました。今回の講義は大人向けで、子供向けの分かりやすい講義もあります。

 

私達が普段何気なく使っているトイレ、風呂、洗面所に流し台。もし家庭や工場で汚れた水が適切に処理されず川や海にそのまま流れ込んだらどうなるか、考えてみたことはありますか?見た目が悪いとか、悪臭がするだけではありません。害虫が繁殖したり、危険な伝染病が流行したり、公害病が起きたり、川や海の魚介類が死んだり汚染されて食べられなくなったりするんです。下水道や下水処理場は、そうした汚水による危険から私達を守るために発達してきました。はじめに、東灘処理場の基幹業務である「下水の浄化とまちの衛生管理」についてお伝えします。

下水処理場のしくみ 出典:リーフレット「下水道KOBE」に①~⑥の番号を追記

 

各家庭、工場からやってきた汚水は微生物の力で浄化されます。具体的には下記の6つの処理施設を経て、きれいな水と無害な汚泥へと分離、海や道路・埋立地などへと返されます。見学ではその各施設の様子を見ていきます。

①沈砂池

②最初沈殿池

③生物反応槽

④最終沈殿池

⑤消毒設備

⑥汚泥処理施設

神戸の水はどのようにしてきれいになる?処理場見学へ出発

出典:パンフレット「東灘処理場」

 

神戸市には東灘処理場、ポートアイランド処理場、鈴蘭台処理場、西部処理場、垂水処理場、玉津処理場の6つの下水処理場があります。東灘処理場は1962年に市内で2番めに作られた下水処理施設で、1日あたり約23万㎥と最大の処理能力を持ち、中央区の一部、灘区、東灘区といった住宅が密集する地域住民の健康と生命を守るため1日24時間休まず働いています。

処理場内の見学に出発します。写真手前は①の沈砂池の一部です。建物の向こうに魚崎運河が見えます。

沈砂池内の様子。櫛の歯の形をした汚水スクリーンが下から上へとぐるぐる回転しながら木切れや葉っぱなどの大きなゴミを取り除いています。さらに砂などの重いゴミを水底に沈殿させて取り除き、残りの汚水をポンプで汲み上げます。

4台の巨大なポンプが汚水を汲み上げています。通常は2台のポンプを使用していますが、豪雨時などは4台がフル稼働することもあるそう。

汚水は巨大なパイプで魚崎運河を渡り、②の最初沈殿池へと運ばれます。最初沈殿池では汚水をゆっくりと流し、沈殿しやすい固形物を沈めます。

これは③の生物反応槽。茶色く見えるのは汚水を浄化してくれる微生物たちです。この水槽にはたくさんの微生物が住んでいて、水槽の底から大量の空気を吹き込むと微生物の動きが活発になり、沈砂池や最初沈殿池で取り切れなかった汚水の汚れを食べてくれます。これは「活性汚泥法」という浄化法で、イギリスで初めて下水処理場が誕生した108年前から多くの国で採用されている方法です。微生物には細菌類・原生動物・後生動物の3つの種別があり、クマムシ、スピロストマム、アスピディスカなど数十種類の微生物が水の汚れを分解しています。

 

 

東水環境センターが「下水道×アート×SDGsプロジェクト」として制作した動画「#地球最強生物と仲間たち」

 

微生物は1滴の水の中に1万匹も生息するほど小さな生物ですが、なかでも後生生物の仲間であるクマムシはマイナス273℃から100℃の温度、真空から75,000気圧までの圧力、数千グレイ※の放射線、実際の宇宙空間に10日間曝露した後も生存が確認されるなど、地球生物の常識を超越した環境への極限耐性を持つことが確認されており、「地上最強動物」として最近注目されるようになりました。

※1グレイ:放射線が“物質”に当たったときに与えたエネルギー量を表す単位

 

下水処理場で利用されている「活性汚泥」に大量に含まれる微生物は、元から地上のどこにでもいる生き物です。人口の少なかった時代・地域ではこの微生物の働きにより、処理場がなくても自然と汚水は浄化されていました。ところが人口増加により都市化が進んでくると、自然の浄化作用が人間の出す汚水の量に追いつかなくなったため、大量の汚水を処理するための施設が必要となってくるのです。

これは生物反応槽を輪切りにしたもの。微生物たちは空気がないと死んでしまい、汚水は浄化されません。そのため微生物たちが元気に働いてくれるよう、反応槽の底から常に大量の空気が送り込まれています。

 

たくさんの汚れを食べた微生物たちは重くなって底に沈んでいき「活性汚泥」となります。④の最終沈殿池では、この活性汚泥と浄化された水を分離、水には⑤の消毒設備で次亜塩素酸ソーダを加えて大腸菌などを消毒し海へと戻されます。

運河の中ほどから水が湧き出ているのがわかりますか?東灘処理場で処理され浄化された水が魚崎運河から海へと帰っていくところです。

これは汚水から分離された汚泥です。これに高分子凝集剤を加え、汚泥濃縮機でさらに水分を抜いた後、汚泥消化タンクで発酵させてから、脱水機にかけます。

脱水機棟で脱水機にかけられた汚泥は「脱水ケーキ」となり、トラックで六甲アイランドにある東部スラッジセンターへと運ばれていきます。この脱水ケーキは毎日70トン産出され、六甲アイランドにある東部スラッジセンターで高熱焼却後、アスファルトの材料や大阪湾の埋め立てに利用されます。

 

 

#13 おうちで東部スラッジセンター見学~マンホールレンジャーのSDGs~

さて焼却炉の温度は?答えは動画の中にあります。

 

ここまでが全国の下水処理場で行われる汚水の処理工程です。

この日は車椅子の方も見学に来ていましたが、スロープのお陰でスムーズに設備内を移動できていました。

神戸市では下水処理場が取り組んでいるSDGsについて「下水道×アート×SDGsプロジェクト」と題して13本の動画を作成し、YouTubeにアップロードしています。東水環境センターでは壁画アートを含む下水道とアートコラボレーションなどを行っており、このプロジェクトは下水道の優れた広報活動の取組事例に対し表彰される令和3年度の第9回GKP広報大賞でグランプリ、令和4年度(第15回)国土交通大臣賞<循環のみち下水道賞> 広報・教育部門を受賞しました。

コレラの大流行をきっかけに始まった都市の衛生管理事業 下水処理場はじめて物語

写真:旧神戸外国人居留地に残されている日本最古の近代下水道。神戸付近で焼かれたレンガを用いて、円形管と卵形管が居留地内の南北道路に沿って6本1880m敷設され、明治5(1872)年頃に完成しました。現在もその一部が下水道の雨水幹線として使われています。管渠の形状には円形、矩形、馬蹄形、卵形がありますが、上の写真のような卵形の管は円形管に比べて勾配が緩やかでも、流量が少なくても速い流速が得られるそうです。

 

世界で最も古い下水道は、紀元前5000年頃、メソポタミア文明が栄えたウル(アブラハムの故郷)、バビロンの都市で作られたものとされています。紀元前616~578年には古代ローマで「クロアカ・マキシマ(最大の暗渠の意)」という下水道が作られ、19世紀まで使用されました。余談ですが、映画『ローマの休日』でオードリー・ヘップバーンが手を入れていた「真実の口」、あれは古代ローマの貴族の家にあったマンホールの蓋だそうです。

 

18世紀半ばから始まった産業革命による都市部の人口増加、さらにコレラの大流行を受け、19世紀に入るとフランスやイギリスで本格的な下水道整備が進められました。元々インド・ベンガル地方の風土病に過ぎなかったコレラを世界に広めたのはイギリスです。イギリスの植民地支配により世界中に拡散したコレラは1817年から1926年の間に猛威をふるい、大量の死者を出すコレラ・パンデミックが6度も起こったそうです。その後1865年、イギリスの河川汚濁王立委員会で「下水は処理をしてからテムズ川に放流すべき」という報告書がまとめられたことをきっかけに下水処理方法の研究が進みます。1884にはコッホのコレラ菌発見により、それまで空気感染によるものと思われていたコレラがコレラ菌に汚染された不衛生な水を経由して感染することがわかりました。1897年にはファウラーが「活性汚泥法」と呼ばれる汚水の浄化方法を発見します。これは下水に空気を吹き込むと微生物が活性化し汚水が浄化されるもので、この方法による浄化実験が成功したのは1914年のことでした。

 

1918年、マンチェスターのウィジントンで活性汚泥法を採用した世界初の下水処理場が運転を開始しました。この活性汚泥法は、浄化実験が成功した1914年から108年が過ぎた現在も下水処理の主流技術として世界中で活用されています。先程見てきたように、東灘処理場でも活性汚泥法を使って下水が浄化されています。神戸 下水道の歩み館の職員の方は「この仕事をしていると、自然には元から自浄能力や復元力が備わっていて、汚れたり傷ついたところを自らの力で修復しようとすることがわかり、自然の不可思議さについて考えさせられます」と話していました。

「衛生」とは「生命を衞(まも)る」こと 日本の下水処理場の始まり

大阪市下水道科学館に隣接する四季の庭に移設された太閤下水の一部とレンガ積み下水道。「太閤下水」は天正11(1583)年、豊臣秀吉が大阪城と城下町を造成した際に作られた歴史的土木遺産です。驚くべきことに一部の「太閤下水」は今日でも現役で活躍しています。

 

コレラは日本に6世紀に伝わった天然痘に次いで2番めに流行した感染症で、文政5(1822)年に海外から持ち込まれました。このときは限定的な広がりで済みましたが、安政5(1858)年に長崎に寄港した米国の艦船ミシシッピー号により持ち込まれたコレラは「安政コロリ」と呼ばれ全国で大流行、約3年間猛威をふるい28万人もの死者を出しました。明治に入ってもコレラや赤痢、腸チフスなどが幾度となく流行したため、欧米諸国を視察した内務省初代衛生局長、長与専斎の「コレラなどの伝染病を予防するには、公衆衛生が大事であり、そのためには下水道の建設が必要である」との提案により、明治政府は下水道の建設を決定しました。そして明治17(1884)年に東京で汚水や雨水の排除を目的とする初めての本格的な下水道「神田下水」が作られました。

 

「衛生」という言葉を作ったのも長与専斎です。「衛生」には「生命を衞(まも)る」という意味が込められています。下水処理場を運転する上で必要不可欠な衛生工学には人の生命を守りたいという強い思いがあったのです。不潔なものに触れる仕事はとかく嫌われがちですが、やまさんも衛生に携わる仕事は本来とても崇高なものだということに改めて気づかされ、はっとしました。

写真:旧三河島汚水処分場 2007年に国の重要文化財に指定されました。 出典:東京都下水道局

 

日本で初めて作られた下水処理場は大正11(1922)年、東京市に完成した「三河島汚水処分場」です。この施設では「散水ろ床法」を用いて汚水の浄化が行われました。昭和5(1930)年には名古屋市の掘留処理場と熱田処理場で、日本初の活性汚泥法を用いた下水処理が開始されました。

 

※散水ろ床法:円形池の中に砕石などの濾材を高さ1.5~2m程度に充填し、濾材の表面に下水を散布することにより、表面に付着した生物膜と接触させ下水を処理する方法

 

神戸市初の下水処理場は1958年に運転を開始した中部処理場です。東灘処理場は2つ目の処理場として1962年に運転を開始し、2011年に中部処理場が廃止されたため、今では東灘処理場が神戸で最も古い下水処理場となっています。

 

下水処理場は工場から排出される下水の浄化も行っています。1955年~1973年まで続いた高度経済成長期には工場から海へと排出された工場排水によりイタイイタイ病、水俣病といった公害病患者が急増しました。これを受け政府は1970年11月に開かれた公害国会で「水質汚濁防止法」を制定、河川などで守られるべき水質レベルが「環境基準」として定められました。この基準を達成するため下水処理設備がその中心的な役割を担うことになりました。

 

次回は、まちを災害や水害から守り、住民が安心して暮らすためのプロジェクトや日々の業務、水辺の環境改善の取り組みについてお伝えします。

 

文/チアフルライター やまさん

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