沿線お役立ちコラム

【前編】耐震工事で出現した戦意高揚スローガンと闇市時代の広告@元町高架通商店街

モトコーの耐震工事現場で見つかった意外な戦争遺産

神戸在住、レトロ好きのチアフルライターやまさんです。2018年4月からJR西日本による元町駅~兵庫駅間の高架橋耐震補強工事が行われています。この高架橋は戦前に建造されたもので、今なお使用され続けている大変由緒ある近代建築なのですが、その補強工事のさなか、テナントが退去したことにより、橋脚に描かれた戦時中のスローガンや闇市時代の広告が発見されました。やまさんは、わずかの間しか見ることの出来ない貴重な戦争遺産を是非とも見ておきたいと現場へと向かいました。前編ではこの高架橋の歴史を振り返りつつ戦前〜戦時中の神戸駅周辺を見ていきます。

※写真:神戸駅東側高架下(2021年10月1日撮影)

戦前に行われたプロジェクトX ― 省線の高架化大工事

写真:完成直後の省線高架三ノ宮駅付近

神戸市交通局100年史より

 

1889(明治22)年、省線(旧国鉄、現在のJR)新橋駅~神戸駅間が鉄道で結ばれ、東海道本線が開業しました。その当時、神戸は兵庫と居留地周辺以外、のどかな田園地帯でした。しかし市が発展するにつれ、山と海に挟まれた狭い平地は瞬く間に市街地化。1918(大正7)年頃には、灘~三宮間 に14か所、市内全体で33か所の踏切ができており、そこを1日180~190本の列車が走っていました。線路と踏切が近隣住民の往来に支障をきたすようになってきたところへ、京阪神間の鉄道複々線化計画が持ち上がったため、鉄道の立体交差を望む声が大きくなってきました。内閣鉄道院、西部鉄道管理局、内務省、兵庫県、及び神戸市による協議により、鷹取~灘間で市街地中心部の7.5kmをスラブ式軌道(※1)、両端を築堤式(※2)にした全長11kmに及ぶRCラーメン構造(※3)による高架橋が建造されることになりました。工事は1926(大正15)年から始まり、5年後の1931(昭和6)年に完成しました(※4)。

 

※1 スラブ式軌道とは新幹線の軌道などのように線路の下にバラストではなくコンクリートの道床を用いた軌道。

※2 築堤式とは盛り土をして築いた堤の上に線路を敷いたもの。

※3 RCとは鉄筋コンクリート、ラーメン構造とは柱と梁で骨組みを作ったもののこと。

※4 『神戸 闇市からの復興 占領下にせめぎあう都市空間』によると工事期間は1922~1935年

わずか1日で上下が入れ替わった省線と神戸市電

写真:地上を走る省線のSLとその上を跨ぐ跨線橋を走る神戸市電

神戸市交通局100年史より

 

鷹取~灘間の高架化工事は戦前のプロジェクトXとも呼ぶべき大工事でした。なかでも白眉と言えるのが、わずか1日で上下線路を入れ替えた省線と神戸市電の切り替え工事です。

 

当時、1910(明治43)年から営業を始めていた神戸市電が省線の上を跨線橋で跨いで走っていました。省線の高架化工事に伴い、今度は市電が高架線の下をくぐることになり、滝道・相生橋・湊川・御幸、計4ヶ所の切替工事を一斉に実行することに。電車の運休など、影響を最小限に留めるため、準備期間として3年間を費やし軌道建設や切替などの手順が決められました。

写真:国鉄高架化に伴う軌道切り替え工事の様子。

神戸市交通局100年史より

 

そして1929(昭和4)年6月9日の切替え当日、4ヶ所を1日で切り替えるために集められた要員は、鉄道省側800人、神戸市電気局(現・神戸市交通局)側300人の計1,100人。払暁から深夜に至る大工事でした。

 

滝道、湊川、御幸の3か所は、鉄道の架橋までに市電の電車線と軌道を撤去しなければならず、これに全力が注がれた。撤去後鉄道が架橋され、その後電車線接続がなされた。10日午前1時半の最終列車通過後には、鉄道線を除去した後、市電軌条の連結作業が行われ、鉄道、市電ともに10日始発から無事開通した。この切替工事の完了を祝って沿道の家々には国旗が掲げられ、市は大倉山から花火を打ち上げて祝った。

―――――神戸市交通局100年史 第3章 市電・電気事業の発展と課題より

元町駅は三ノ宮駅だった?

現在三宮の目貫通りであるフラワーロードの東側に位置するJR三ノ宮駅ですが、以前はもう少し西寄りにありました。旧三ノ宮駅は1874(明治7)年、東海道本線開業の前段階である大阪駅~神戸駅間の開通と同時に現在の元町駅の辺りに開業、近くにあった三宮神社にちなんで三ノ宮駅と名付けられました。省線の高架化工事と同時に阪神線・阪急線の市内乗入れ(※)、そごう百貨店の神戸開業などが当時の滝道(現・フラワーロード)寄りに計画されていたため、1931(昭和6)年に現在の場所へ三ノ宮駅が移動したのです。その後、元々三ノ宮駅があった場所にも駅を設置してほしいとの請願があったため、1934(昭和9)年に新たに駅舎を建て、神戸市の原型となった神戸村・二つ茶屋村・走水村が合併してできた「元町」にちなんで元町駅と命名されました。元町駅のほうが三宮神社に近いのはそのためです。因みに阪神元町駅は省線元町駅完成の2年後、1936(昭和11)年に省線元町駅のほぼ真下に開業しました。

 

※ この当時、阪神線は岩屋―春日野道―三宮―滝道駅を終点とし地上を走り、阪急線は現在の王子公園駅の北側

にあった上筒井駅を終点としていました。省線の高架化工事を契機とした三宮の開発計画により、阪神電鉄が地下乗り入れ、阪急が省線と同じく高架乗り入れすることになりました。1933(昭和8)年に阪神三宮駅とそごう神戸店(現・神戸阪急)が開業、続いて1936(昭和11)年に阪急三宮駅と神戸阪急ビル東館・西館が開業、現在とほぼ変わらない三宮の顔が完成しました。

JR神戸駅の高架橋に描かれた戦意高揚スローガン

神戸駅は1874(明治7)年、大阪~神戸の終着駅、国内で2番目の官設鉄道駅として開業しました。1889(明治22)年に新橋~神戸を結ぶ東海道本線開業時に2代目駅舎となり、さらに省線の高架化工事で1930(昭和5)年に3代目高架駅舎へと建て替えられました。神戸駅駅舎は2001年に第2回近畿の駅百選、2009年に近代化産業遺産に選ばれています。

1930(昭和5)年に高架化工事後の神戸駅が開業して以来60年余りコンコースに設置されていた水呑器。

戦時中の戦意高揚スローガンと思われるペイントは、神戸駅の西側、湊町線と高架橋が交差する場所にあります。日の丸が描かれた柱が見えてきました。どこにあるかわかりますか?

その日の丸がこれ。日の丸の下に「祈 武運長久」と書かれています。「祈 武運長久」の左面には「時間励行!貯金報国!」の文字が。

こちらの柱には「長期抗戦 持久乃覚悟」と書いてあります。この表記の由来については実ははっきりしていません。2021年の9月30日、ツイッター上に第一発見者の方がこの柱の写真をツイート。それが戦跡マニアなどの間で拡散され様々な推測や憶測を呼んだ、というのがことの経緯です。やまさんは同じ年の同じ年の10月1日〜12月16日の間に工事現場の方にお願いして撮影させていただきました。

工事現場の警備員の方に伺ったところ、この場所は補強工事が始まる前にはレンタカー会社の駐車場として使用されており、中の柱の様子は全く見えなかったそうです。このスローガンが戦後80年近くの間こうして静かに佇んでいたのだろうと思うと感慨深いものがあります。

高架柱に書かれた言葉「戦争スローガン」とは

写真:大政翼賛会による戦争スローガン「進め一億火の玉だ」

Wikipediaより

 

1937(昭和12)年から始まった日中戦争を契機に、国民の戦意を昂揚させ、自己を犠牲にして戦争遂行に協力させようとの目的で、同年「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」の三つのスローガンを掲げた「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定されました。消費節約、貯蓄奨励、勤労奉仕などを謳う国策標語が数多く作られ、ラジオ、教育映画、新聞、雑誌、ポスターなどのメディアを通じて広く国民の間に喧伝されました。「欲しがりません勝つまでは」「石油の一滴、血の一滴」なんて言葉は皆さんも聞いたことがあるのではないでしょうか?また、それらのスローガンを題材とした軍歌も量産されました。では、JR神戸駅の高架柱に書かれたスローガンは本当に戦時中のものなのか検証してみましょう。

写真:「祝出征 祈皇軍之武運長久」の寄せ書き

西宮市平和資料館提供

 

【武運長久】

三省堂の新明解四字熟語辞典によると「武運長久」とは「武人としての命運が長く続くこと。また、出征した兵がいつまでも無事なこと」という意味。この言葉は出征する兵士の入営祝や出征祝の際、地元の人たちから贈られる日章旗の寄せ書きによく書かれた言葉です。この柱に「武運長久」と書かれたということは、神戸駅のこの柱の辺りで兵士を見送る万歳三唱がよく行われていたのかもしれません。また「祈 武運長久」という言葉は兵士が戦地に携帯した手鏡などの身の回り品にも書かれていたようです。

【長期抗戦】【持久乃覚悟】

1938(昭和13)年、現在の中日新聞の前身のひとつである名古屋新聞誌上に「持久で一貫 長期へ突貫」「燃ゆる団結 長期の固め」という標語が掲載されたそうです。同じ年に国家総動員法が公布され、あらゆる物資が配給制となります。戦争が長期化し物資の窮乏や徴兵による人材不足のなか、政府は国民に対し戦意を鼓舞し続ける必要がありました。「長期抗戦」「持久乃覚悟」も同様の意味を持っていた標語だと思われます。これと似たような言葉に「撃ちてし止まん」という「勝つまでは絶対に戦いをやめない」という意味のスローガンもありました。

写真:アジア歴史資料センター 写真週報18号(国立公文書館)より

 

【貯金報国】

1940(昭和16)年、政府主導により戦争協力のための住民組織「隣組」が作られました。隣組は出征兵士の歓送迎、防空演習、防諜、国債購入、貯金奨励などの役割を担いました。政府は戦費調達のため、国民に国債の購入を奨励し、その国債購入のための貯金もまた奨励しました。戦時中に内閣情報部(後の情報局)から発行された『写真週報』という国策グラフ雑誌にも貯蓄を奨励する広告が複数掲載されています。

 

これら全ての言葉が戦時中によく使われていた標語であることから、やはりこの文字は戦争中、それも隣組が組織された1940年~1945年辺りに書かれたものと思われます。

写真:1936年当時の川崎重工業周辺。三角州の工場地帯が川崎重工の敷地です。ここで数多くの軍艦が建造されていました。

神戸アーカイブ写真館提供

拡大写真:黄色丸の中央が戦争スローガンのある地点

 

これらの戦争スローガンがある場所が、ちょうど川崎重工業への通勤路にあることから「川崎重工で働く工員さんに向けて書かれたものでは?」という意見がツイッター上に挙がりました。地理からスローガンが書かれた理由や目的を推測した人がいたんですね。戦時中の航空写真で確認してみると一目瞭然です。

1945年6月4日、焼夷弾を投下中の米軍が撮影した神戸市。写真手前が神戸駅の東側と川崎重工の一部。

Wikipediaより

写真:JR三ノ宮駅の高架橋に残る戦時中の機銃掃射の弾痕。

 

神戸とその周辺地域は1945年(昭和20)年1月3日から終戦までの約8ヶ月間に大小合わせて128回の空襲を受けます。特に1945年(昭和20)年3月17日と、同年6月5日の神戸大空襲では無差別爆撃により神戸市全市が焦土と化しました。これらの空襲による被害は戦災家屋数14万1,983戸、罹災者53万858人、死者7,491人、負傷者1万7,002人とされています。

 

しかし省線灘~鷹取間の高架線はこの空襲を耐え抜き、戦後は三ノ宮駅から神戸駅にかけての高架下やガード下が闇市として利用され、空前の活況を呈することになります。また、省線の線路は戦後の米軍占領期(1945~1952)にGHQにより接収され、兵士や物資を運ぶための専用鉄道として使用されました。

 

【後編】耐震工事で出現した戦意高揚スローガンと闇市時代の広告@元町高架通商店街に続く 

 

【引用・参考】

『神戸 闇市からの復興 占領下にせめぎあう都市空間』 村上しほり著

神戸市交通局100年史 第3章 市電・電気事業の発展と課題

解体進むモトコーの柱に闇市の記憶 華僑の屋号名が続々出現 神戸新聞NEXT 2020/6/10

戦争遺産フォーラムくまもと 上村真理子 戦時資料室

『週刊週報』にみる昭和の世相 国立公文書館 アジア歴史資料センター

神戸アーカイブ写真館HP

西宮市平和資料館所蔵資料の紹介 西宮市役所HP

《戦時下標語・国策標語》 みんなの知識 ちょっと便利帳

プロジェクトX挑戦者たち 鉄道分断 突貫作戦 奇跡の74日間〜阪神・淡路大震災〜DVD NHKエンタープライズ

阪神・淡路大震災「1.17の記録」 神戸市市長室 広報戦略部広報課

2022年10月1日(土)モトコー再整備 一部建物の使用開始について JR西日本不動産開発株式会社 2022/9/26

 

文/チアフルライター やまさん

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