国内でも随一の規模を誇った戦後の闇市と闇市を起源とする高架下商店街の誕生
【前編】耐震工事で出現した戦意高揚スローガンと闇市時代の広告@元町高架通商店街はこちら
写真:神戸市の闇市で揚げ物をする商人 神戸アーカイブ写真館提供
後編では、戦後闇市時代以降の高架橋と元町高架通商店街の変遷について見ていきたいと思います。
写真:闇市三宮高架沿い 神戸アーカイブ写真館提供
1945(昭和20)年9月17日付の神戸新聞に、元町~三ノ宮駅間のガード下で揚げ饅頭を売る中国人商人が現れたという記事が掲載されました。これが神戸の闇市の始まりとされています。その後瞬く間に三ノ宮駅~神戸駅間の高架下やガード下に屋台や店舗が乱立し大規模な闇市が出現しました。やがてこの闇市は「三宮自由市場」と呼ばれるようになり、最高時で1,500もの店舗が並ぶ全国でも随一の規模を誇る闇市となりました。ここに来れば何でもある、と遠方からも多くの人々が訪れたそうです。
しかし翌年の9月には、風紀や衛生上の問題から神戸市、警察、GHQによる取り締まりが始まります。三宮自由市場の商人たちは、この取り締まりに対抗するため自治組織を立ち上げます。台湾省民会を基盤とする「国際総商組合」、博徒系の有力者「松明会」、「朝鮮人自由商人連合会」などを中心に市場の大規模清掃が行われ、商店街の衛生美化に努めました。行政側も闇市の商人たちを一方的に排除しようとしたわけではなく、神戸市は窮乏期の特例措置として、浜側に立ち並ぶ店舗群に対し道路占有許可と露店営業許可を出します。こうして、行政が街の実態に合わせる形で闇市が合法的な商店街として生き残っていく道筋が作られました。
1946(昭和21)年8月以降、三宮自由市場からまず路上店舗群が撤去され市内各所へと分散移転。三ノ宮駅の東南、現在工事中のサンパルや中央区役所があったあたりに新設された「三宮国際マーケット」や、現在の三宮センター街東側にできた「ジャンジャン市場」などへ引っ越しました。最後まで三宮の高架下に残った商人たちは「三宮高架商店街振興組合」を組織、この時に松明会が取り仕切っていた商店群は花隈へと移転、これにより三宮自由市場は消滅します。
それまで元町の高架下で営業していた商人たちは松明会に統括されていたのですが、1947(昭和22)年、高架下の商人たちにより運営される「元町高架通商業協同組合」が新たに発足、「元町高架通商店街」という名称が生まれました。元町高架通商店街(通称モトコー)は、JR元町駅から神戸駅の間に道路を挟んで7つのブロックに分かれた約1kmの商店街です。この長さは鉄道高架橋の下にある商店街としては日本一のもので、1947年末頃の三ノ宮から神戸駅までの「三宮高架商店街」「元町高架通商店街」には約1,300軒もの古着屋や飲食店などが軒を連ねていたそうです。
耐震補強工事で発見された闇市時代の商標や広告
写真:モトコー3(元高3番街)の東側入り口。
2020年6月10日、元高3番街の高架橋耐震補強工事中、闇市時代のものと思われる屋号や広告が見つかったと神戸新聞により報じられました。これはすごい発見、とやまさんも報道の翌日に現場に行き柱を見せてもらいました。
モトコー3の橋脚柱。これは神戸新聞でも紹介された「隆昌洋行」と「南勢物産公司」の文字です。「洋行」「公司」が中国語で会社や商社を意味することから華僑の会社の屋号ではないかと言われています。
「誠實本位 在庫豊富」「自轉車売買 ○○同部分○ 卸」「喜楽公司自轉車卸部」と読めます。ここは自転車屋さんだったようです。
モトコー3はその昔「三栄商店街」と呼ばれていたようです。とするとモトコー1は「一栄商店街」、モトコー2は「二栄商店街」だったのでしょうか?想像が膨らみます。
実はここ以外にも色んな場所の橋脚柱に戦後の名残が残されています。
こちらは元町駅の東側、ピアザ神戸でやまさんが偶然見つけたもので、2021年の10月頃に改装工事中だった店舗の柱です。古い張り紙のようですが、「自由党公認」「◯説會」「○議院議員候○」「會場 一時 三ノ宮駅前」などの文字があることから、どうやら三ノ宮駅前で開かれた議員さんの演説会の告知ポスターのようです。実は「自由党」という名前の政党は明治時代から今までにたくさんあるのですが、高架の完成が1931年、当用漢字字体表が内閣より告示され、新字体が使われるようになったのが1949(昭和24)年からですから、この演説会は戦後にできた「日本自由党」か「民主自由党」のものではと思われます。現在この柱にはペイントが塗られ、元の姿は失われてしまいました。
こちらはJR神戸駅の東側。レンガ色に塗られた柱にわずかに「灸」という字が見えます。外側からはわずかしか見えませんが、施工者の人たちはこういう昔の表記をたくさん目にしていたのでしょうね。実に羨ましいです。
戦前の高架下は映画館などが多少あったものの、「東の浅草、西の新開地」と呼ばれた一大繁華街新開地に比べると、人通りは遥かに少なかったそうです。それが高架下の戦後闇市をきっかけとして街の復興がいち早く進み、人の流れが新開地から三宮にシフトし始めます。1946(昭和21)年の三宮センター街を皮切りに、新聞会館、神戸国際会館、交通センタービル、神戸商工貿易センタービルなどが次々と建てられ、1957(昭和32)年には神戸市役所が湊川から東遊園地に隣接する現在の場所へ移転。名実ともに三宮が神戸市の政治経済の中心地となりました。つまり現在の三宮を育てるインキュベーターとなったのは高架下の闇市だったのです。
おもちゃ箱のようだった震災前の元町高架下商店街
写真:元町高架通商店街(2021年9月撮影)
震災前のモトコーは、骨董品、中古家電、中古衣料品、古書、中古時計、中古レコード、アジア雑貨、昭和のレトロ玩具、チマチョゴリの店などがごちゃごちゃと並ぶ、まるでおもちゃ箱のような商店街でした。やまさんもモトコーの古本屋巡りに足繁く通ったものです。当時は闇市の頃の名残も残っていて、骨董品店にはショーケースに軍服や戦前のものらしいトランクなども飾ってありました。また、神戸港に寄港した外航船の船員さんが中古家電を物色する姿をよく見ました。これは『神戸 闇市からの復興 占領下にせめぎあう都市空間』という戦後の神戸闇市について調査した著書にも言及されており、「1960年代には中古家電製品を安く販売する店が増加し、中古でも品質の良い日本製の電気製品を求めた外国船船員が訪れるようになっていた。旧ソ連、フィリピンなど東南アジアの船員が言葉は通じないながら身振り手振りで購入していたという。しかし、震災の影響で入港する外国船が減少したことから、元町高架通商店街の客数も減少してしま」ったそうです。
モトコー2の老舗「レンセイ製菓」。戦後間もなく創業した洋菓子店で、ご主人は台湾出身。お店のご主人が亡くなったため、2021年の夏頃に閉店されたそうです。
モトコーには時計店も多く、時計修理の看板が掛かっていました。これは船員さんが神戸港に寄港した際、腕時計を修理してもらっていたからだそう。24時間休みなしの海運業者である船員さんにとって、正しい時間を常に把握することはとても重要なことなんですね。
こちらも戦争直後に高架下で開業した台湾料理店「丸玉食堂」。元町駅の西側、モトコー1の手前にありました。写真は名物のローメンと手羽の唐揚げ。お店からは取材を断られていたのですが、昨年の初め頃に電話でお話を伺うことができました。初代経営者は台湾出身の方だそうです。お店では出来合いの冷凍品を一切使わず全て一から手作り、手羽などもお肉屋さんから仕入れてきたものを調理し、ローメンの麺もお店で手作りしていました。バブル景気だった30年位前までは、朝お店のシャッターを開けた瞬間にお客さんがなだれ込んでくるほど忙しかったそうです。丸玉食堂は多くのファンから今後どうなるのか、その趨勢が見守られてきましたが、残念ながら昨年2022年6月19日をもって閉店しました。
モトコーには他にも老舗の店舗が数多くありましたが、その中でも水餃子で有名な「淡水軒」は湊川のマルシン市場へ、コンバースで有名な「柿本商店」は元町商店街へ移転、現在も元気に営業されています。
未曾有の大震災を耐えた高架橋
写真:倒壊したJR六甲道駅高架
写真提供:神戸市 licensed underCC BY 2.0
1995(平成7)年1月17日午前5時46分、後に阪神・淡路大震災と呼ばれる大規模震災が発生しました。淡路島、兵庫県南部で気象庁観測史上初の震度7を記録し、死者6,434名、全壊・半壊家屋約25万棟、約46万世帯が被災しました。
鉄道のうち最も被害を受けたのは橋梁で、山陽新幹線で8ヶ所、在来鉄道と新交通システムでは24ヶ所の合計32ヶ所が落橋、コンクリート高架橋の多数が破損しました。阪神高速道路も崩落し主要幹線が寸断された阪神間は「陸の孤島」と呼ばれるほどの孤立状態に陥ります。JR東海道線では西宮駅~須磨駅間で貨物列車を含め8本が脱線したほか、鷹取工場で建物や施設が全壊・損傷し39両が脱線、転覆しました。また、六甲道駅で高架橋が倒壊、新長田駅の設備が壊滅するなどの被害を受けました。
各鉄道会社では震災の翌日から急ピッチで鉄道の復旧作業に当たりましたが、なかでも驚異的なスピードで全線復旧を遂げたのがJR線でした。同年3月30日、再建された六甲道駅高架橋で重量のある電気機関車4本(約1,000トン)を同時通過させ運輸省の検査に合格。翌日の4月1日には営業を再開し、2年かかると言われた難工事を僅か2ヶ月半で成し遂げます。この時の工事の様子はNHKの「プロジェクトX~挑戦者たち~」という番組でも取り上げられました。
倒壊した六甲道駅を含むコンクリート高架橋の多くは1968(昭和43)年から1976(昭和51)年の間、ちょうど高度成長期に当たる時期に作られたものでしたが、1983(昭和58)年に制定された「国鉄建造物設計標準」に基づいて設計されたものは比較的軽微な損傷に留まりました。一方、戦前に工事が行われた灘~鷹取間高架橋もまた比較的ダメージが少なかったため、高架下の商店街が撤去されることなく補修が行われました。このことにより、戦前の高架橋及び高架下商店街がほぼそのまま生き残りました。
写真:交通センタービル屋上よりJR三ノ宮駅を望む1995年撮影
写真提供:神戸市 licensed underCC BY 2.0
震災時の三ノ宮駅周辺。交通センタービル、神戸阪急ビル東館、神戸新聞会館、そごう神戸店(現・神戸阪急)、神戸市庁舎2号館などが甚大な被害を受けましたが、JR三ノ宮高架橋は倒壊を免れました。
写真:阪神新在家駅1995年1月19日撮影
写真提供:神戸市 licensed underCC BY 2.0
この震災で阪神電鉄は御影駅~西灘駅間の8カ所の陸橋で橋桁が落ち、新在家高架橋の倒壊、石屋川車庫の陥没など、大きな被害を受けました。この時期、不通区間では代替バスが運行され、会社員たちはスーツにリュック、スニーカーといった出で立ちで、長い時間をかけて避難所やインフラが止まった自宅から通勤していました。JRと同様に復旧作業が進められていた他線では、6月12日に阪急線が、6月26日に阪神線が全線開通。震災から約7ヶ月後の8月23日、六甲ライナーの全線開通をもって被災地内の鉄道が全て復旧しました。
生き残った高架橋と生まれ変わるモトコー
写真:モトコー3を南側から見たところ 2020(令和2)年6月11日撮影
2016(平成28)年、JR西日本は南海トラフ地震などを想定した高架橋の耐震補強・防火対策を進める方針を発表しました。工事を進めるにあたり、元町高架通商店街の商店が2018(平成30)年3月末をもって退去することに。翌月4月から始まった工事により、店舗数は工事以前の約2割にまで減少しました。テナントへの契約更新打ち切りの申し入れがあった時は、商店主たちから抗議の声もあったそうです。やまさん自身、昭和の香りを色濃く残すモトコーが消えるのを残念に思う気持ちもあります。
1ヶ月後には屋号があった柱に鋼板が巻かれています。これは「鋼板巻き立て工法」と呼ばれるもので、既設の鉄筋コンクリート橋脚に補強鋼板を巻き、橋脚の曲げ耐力、剪断耐力及び靭性(じんせい※)の向上を図る耐震補強工法なのだそう。また、モトコーのように桁下空間を利用している場合、空間の大きさにほぼ変化が出ない工法でもあるそうです。
※靭性とは構造物の強度、粘り強さのこと。外部からの圧力に対し変形しても破壊されないかどうかを示します。
現在、付近では着々と新しい店舗スペースの工事が進められています。レトロさを残しつつ、おしゃれな外観に生まれ変わるようです。
2022年9月26日、JR西日本不動産開発株式会社の発表により、耐震補強工事が完了した3街区(モトコー3)と7街区(モトコー7)の一部においてテナント入居が開始され、現在該当箇所で既に数店舗が営業を始めています。昔から続くモトコーと新生モトコー、やまさんも神戸市民としてその去就を見守りたいと思います。
残念ながら戦意高揚スローガンが書かれていた高架柱もモトコー3の柱と同様2022年8月に工事を完了し、鋼板が巻かれてしまいました。
灘~鷹取間の高架橋完成から91年を経た現在、戦災と震災の2度にわたる大打撃を生き延びた高架橋の上を、日々上下線併せて約600本もの列車が走っています。この高架線が戦前の土木技術力の高さを物語る生き証人であり、それを証明するのがまさに橋脚に描かれた当時のまま残されている戦中のスローガン、闇市時代の屋号であることを思うと、心から感嘆の念を禁じ得ません。神戸駅のみならず、この高架橋全体が近代化産業遺産として今一度見直されて欲しいと思います。
戦災、震災を乗り越え今もなお神戸市民や近隣住民の足として利用され続けている灘~鷹取高架橋。表面上はどう形を変えようとも、高架橋と高架橋を取り巻く物語はこれからも続きます。
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【引用・参考】
『神戸 闇市からの復興 占領下にせめぎあう都市空間』 村上しほり著
解体進むモトコーの柱に闇市の記憶 華僑の屋号名が続々出現 神戸新聞NEXT 2020/6/10
『週刊週報』にみる昭和の世相 国立公文書館 アジア歴史資料センター
プロジェクトX挑戦者たち 鉄道分断 突貫作戦 奇跡の74日間〜阪神・淡路大震災〜DVD NHKエンタープライズ
阪神・淡路大震災「1.17の記録」 神戸市市長室 広報戦略部広報課
2022年10月1日(土)モトコー再整備 一部建物の使用開始について JR西日本不動産開発株式会社 2022/9/26
文/チアフルライター やまさん