沿線お役立ちコラム

【後編】現代に蘇った3人のPRユニット「尼崎城三人衆」が尼崎城を華麗にご案内!

尼崎三人衆のモデルとなった3人の城主① 【しんじろう】

チアフルライターやまさんです。

「現代に蘇った3人のPRユニット「尼崎城三人衆」が尼崎城を華麗にご案内!」後編スタートです。

 

【前編】はこちら

 

【前編】現代に蘇った3人のPRユニット「尼崎城三人衆」が尼崎城を華麗にご案内!

 

ところで、尼崎三人衆のモデルとなった3人の城主はどんな人だったのでしょう?ここでちょっとご紹介します。

 

【しんじろう】初代城主戸田氏鉄(うじかね)のイメージキャラクターです。氏鉄の幼名は新二郎。氏鉄は徳川家康の近習として仕え、徳川家からの信頼が特に厚く、関ヶ原の戦い、大坂の陣で活躍しました。氏鉄は「築城巧者」と言われるほどの城造り名人で、尼崎城の築城、市街の整備造成、新田開発、神崎川分流の拡張改修修築(左門殿川)を行ったほか、大坂城修築時には普請奉行として働きました。現在の尼崎の基礎を作った藩主です。

尼崎三人衆のモデルとなった3人の城主② 【いしのすけ】

【いしのすけ】3代目城主青山幸利(よしとし)のイメージキャラクターです。幸利の幼名は石之助。幸利は12名の城主の中でも在位期間が42年と最も長く、毎朝美しい天守を眺めては感動の涙をこぼすほど尼崎城が大好きな城主だったそう。摂津や播磨など近隣藩の動向を探るため忍者(忍目付)を雇い、また大坂とも連絡を密にして文字通り西の守りの土台を作りました。江戸幕府とも関係が深く、江戸城内に顔パスで入ることのできる数少ない城主のひとりでした。尼崎藩は他藩に比べ一貫して財政が豊かでしたが、幸利自身は質素倹約に努め、善政を敷き領民から敬愛されたそうです。また、幸利は南北朝時代の忠君楠木正成に対しひとかたならぬ思いを持っていたそうで、自らの遺体を藩領にある楠木正成の墓所(現在の神戸市中央区多聞通)に近い坂本村に葬るよう遺言したことにより、青山家の菩提寺である安養寺がこの地に移されたそうです。

 

幸利個人の逸話を家臣の桑原重英が記した『青大録』からエピソードをひとつご紹介します。

 

◆自分の木綿の布団を倹約して優秀な家来をヘッドハントした話◆

幸利公は大変倹約家で、尼崎城におられるときも、参勤交代の道中も、江戸におられるときも同じ木綿の夜具を使っておられた。こたつ蒲団も、敷蒲団を使い回すほどの倹約ぶり。あるとき、こたつの火が蒲団に飛び火してしまったが、焦げたところを繕わせて、そのまま使い続けた。家来が「殿様の夜具にしてはあまりにも見苦しいので洗わせてください」と懇願したところ、洗濯している間に使う、替えの木綿蒲団をやっとつくってくださった。

幸利公がこれほど質素倹約に励まれたのには理由がある。大坂城の守りの要でもある尼崎藩は、かなりの人手が必要だった。幸利公は「倹約したら、人件費に回せるじゃないか。優秀な家来だって、じゃんじゃんヘッドハンティングできるぞ」と言ってはばからず、「きらびやかな持ち物など役に立たない」とお好きではなかった。それを聞いた家臣たちは「幸利公はただのドケチではない。ちゃんと意味があってのことなのだ」と感心しきりだった。

― 南部再生vol.59 『青大録』 現代語訳:谷口雅美 より

 

『青大録』の現代語訳をした谷口雅美さんはこの『青大録』を元に『殿、恐れながらブラックでござる』という小説を書いています。尼崎城での幸利公の活躍や家来たちとの軽妙なやり取りが楽しい本ですので読んでみてくださいね。

尼崎三人衆のモデルとなった3人の城主③ 【よひちろう】

【よひちろう】最後の城主櫻井松平忠興(ただおき)のイメージキャラクターです。忠興の幼名は与七郎。櫻井松平家は徳川将軍家の分家のひとつです。忠興は13歳という若さで家督を継ぎ、幕末は勤皇派の十津川郷士の反乱である十津川一揆や禁門の変などで大坂城代指揮下に守備兵を派遣しました。王政復古の布告後は櫻井忠興と改姓し朝廷へと帰順。明治2(1871)年の廃藩置県とともに藩主としての役目を解かれました。版籍奉還後の明治2(1869)年から2年間は尼崎藩知事として務めましたが、廃藩置県後は東京へ移住し奈良県にある大神神社の大宮司となります。明治10(1877)年に西南戦争が勃発すると、元三河国西尾藩主の子息松平乗承、元丹波亀山藩主松平信政らとともに日本赤十字社の前進である博愛社を設立し、博愛社仮事務所として屋敷や資金を提供しました。

尼信会館でよひちろう様の愛刀を発見!

尼崎城の周辺施設には尼崎城や城主にまつわるものが展示されています。こちらは尼崎信用金庫の施設「尼信会館」。お城から西へ徒歩8分、寺町の一角にあります。ここには最後の藩主である櫻井松平忠興に縁の深いものが多く展示されています。

よひちろう様の愛刀「太刀 銘守家」

「太刀 銘守家」

この刀は櫻井松平家に伝来するもので、最後の藩主松平忠興から櫻井神社に奉納され、現在は尼信会館で管理されています。太刀は鎌倉中期、備前畠田の刀工、守家の作品です。飾太刀拵(かざりたちこしらえ、鞘のこと)は江戸時代の作品で、梨地に松平家の家紋である九曜紋が散りばめられています。尼崎三人衆の中でよひちろう様だけが刀を差していますが、恐らくこの守家をイメージしたものではないかと思われます。

こちらは松平家に伝わる火縄銃。下の火縄銃は第8代藩主松平忠告の頃のものです。

これは尼崎藩で参勤交代の時に使用された道具槍と槍印(槍の先につけるカバー)。各藩では特徴のある槍印を使用して、どこの藩の行列であるかを分かりやすく示していたそうです。この槍印は後に尼崎市章のデザインに生かされました。

櫻井松平家ゆかりの櫻井神社で尼崎城本丸の瓦を発見!

こちらは尼崎城の南に隣接する櫻井神社。松平家藩主の祖桜井内膳信定を主祭神として旧藩士の有志により明治15(1882)年に創建されました。尼崎藩や尼崎藩主にゆかりのある資料が奉納されていましたが、現在は尼信会館で管理されています。

弘化4(1847)年に再建された尼崎城本丸御殿の棟瓦です。実はこの前年に尼崎城は火事により一度消失していたのです。この当時尼崎藩の財政は逼迫しており、城郭の再建は困難かと思われていましたが、多くの領民の自主的な寄進により再建することができたそうです。それだけ藩主が領民から慕われていたということですね。

博愛社記念碑です。最後の藩主松平忠興は大政奉還後名を櫻井忠興と改めました。明治10(1877)年に西南戦争が勃発すると忠興は私財を投じて現地に看護夫を派遣し、敵味方の区別なく負傷兵の手当をさせました。これが「博愛社」の始まりとなり、「博愛社」は明治20(1887)年に「日本赤十字社」へと改称されました。

 

左端に見えている柱のようなものは尼崎城築城当時、外堀に架かっていた橋の石杭。石杭には第8代藩主松平忠告の「先づ霞む竈々や民の春」という句が刻まれています。忠告は文字・絵画・乗馬などに秀でていたため、学問・芸術・武芸の神様として崇敬されているそうです。

尼崎城の本丸があった尼崎市立歴史博物館

尼崎城から東へ徒歩4分のところに尼崎市立博物館があります。元々ここには尼崎城の本丸がありましたが、廃城令により更地になり、跡地に昭和8(1933)年、旧尼崎市立高等女学校(現・尼崎市立尼崎高等学校)の校舎が建てられました。当校は1966年に移転、校舎は城内中学校(現・尼崎市立成良中学校)として2005年まで使われました。

尼崎市立博物館の内観。

尼崎城のジオラマです。

尼崎城に使われていたシャチホコ。

松平家第3代藩主忠告の甲冑です。

この狛犬さん、めっちゃ可愛いですね!

 

以上、尼崎城に縁のある施設を見て回りましたが、やはり本物に触れると3人の城主達の姿がより具体的にイメージできていいですね。皆さんも尼崎城へ遊びに行ったら是非周辺も散策してみてください。城下町尼崎を実感することができますよ。

 

凸版印刷が制作した「ストリートミュージアム」という無料観光アプリをダウンロードすると、スマートフォンを使って江戸時代の尼崎城周辺を散策することができます。実際にまちあるきをしながらVR体験が可能ですので良かったら試してみてくださいね。

実は築城時の石が使われていた尼崎城の石垣

尼崎城は廃城令により破壊されたため、現在のものは江戸時代の図面を元に鉄筋コンクリート造の全く新しい城郭として復元されました。それでもごく僅かに築城当時の材料が使用されています。

 

城内ツアーの後、家老の大西さんに1617年の築城時に尼崎城で使用されていた石垣を見せてもらいました。尼崎城の再建には新たに切り出された小豆島の石が使用されましたが、少しだけ築城時の石も使われているそうです。この当時の石垣には石の表面に穴が刻まれており、その穴に楔を打ち込んで石を割っていました。この穴の跡は「矢穴」と呼ばれ、この矢穴が築城当時の石であることを示しているそうです。

尼崎城址公園の南側出入口にある丸形ポストには尼崎城のものの1/3サイズのシャチホコ「銀鯱」君が乗っています。残念ながらこのポストに郵便物を投函してもお城デザインの消印は押してもらえません。

あなたの家の家紋は?

最後に、家紋についてちょっとお話ししたいと思います。

 

家紋は源氏、平氏、藤原氏、橘氏といった有力な氏族が自分たちの一族と他の氏族を区別するために使い始めたと言われています。後に公家や武家により家紋が広く使用されるようになり、特に武家においては戦いの際敵と味方を区別するための重要な目印として旗印や甲冑に使用されました。

 

尼崎城の城主戸田氏と松平氏の家紋は「九曜紋」、青山氏は「青山菊」です。「九曜紋」は夫々の丸が天体を表しており、8つの星が太陽を囲んでいる意匠になっています。「九曜」とは元々古代インド占星術における天体が神格化されたもので、日本においては9つの星を天地四方を守護する仏神になぞらえた九曜星信仰、北極星(妙見菩薩)を軍神とした妙見信仰を表す文様であることから特に江戸時代に多くの武家で家紋として使用されたそうです。また「青山菊」に使用されている十六葉八重表菊は後鳥羽上皇が平安時代に中国から渡来した菊を愛したことから天皇や皇室を表す家紋となったもの。広く臣下に下賜されたことから、室町時代以降武家の間でも使われるようになったそうです。

 

江戸時代、家紋は徳川家の三つ葉葵のように武家や公家の格式を表す権威の象徴となりましたが、一方でごく一部の者しか家の紋章を使用できなかったヨーロッパと違って町人、百姓、役者、遊女などの一般庶民も広く使用していました。皆さんのお家にもきっと家紋があると思いますから、一度調べてみると面白い発見があるかもしれません。

夜も楽しい尼崎城七変化

尼崎城では、夜間にライトアップが実施されています。通常はホワイトカラーですが、様々なイベントや啓発推進に応じて色が変化します。オレンジは毎年11月に実施される「児童虐待防止推進月間」、ピンクは乳がん検診を促進する「ピンクリボン運動」にちなんだものです。11月23日から12月1日までの間には、サッカーのワールドカップに出場した日本代表、さらに尼崎市出身の堂安律選手を応援しようと、チームカラー「サムライブルー」にちなんで尼崎城が青く輝きました。これらの写真はまゆたさんが毎日会社帰りに尼崎城へ立ち寄って撮ってきてくれました。様々に表情を変える尼崎城が面白いです。

 

今回の取材で、尼崎市には豊かな歴史文化資産が残されていることを知りました。それをわかりやすい形で紹介してくれているのが尼崎城です。皆さんも尼崎でお城と尼崎の魅力に触れてみてください。そして是非尼崎三人衆のしんじろう様、いしのすけ様、よひちろう様に会ってみてください。尼崎城のことがより立体的にわかってワクワクすること請け合いです。

 

尼信会館

アクセス:阪神尼崎駅から南西に徒歩5分

開館日:火~日曜日

開館時間:10:00~16:00

休館日:月曜日・祝日(土日と重なるときは開館)・12/29~1/5

入館料:無料

 

 

櫻井神社

アクセス:阪神尼崎駅から南へ徒歩6分

 

 

尼崎市立歴史博物館

アクセス:阪神尼崎駅から南東へ徒歩10分

開館日:火~日曜日

開館時間:9:00~17:00

休館日:月曜日(祝日の場合直後の平日)・12/29~1/3

入館料:無料

 

 

【参考】

Web版尼崎地域史事典apedia

Web版図説尼崎の歴史

実在した尼崎城主の小説『殿ブラ』!作者・谷口雅美さんインタビュー

現代語訳「青大録」 南部再生

てらまちPROJECT

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文/チアフルライター やまさん

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【前編】現代に蘇った3人のPRユニット「尼崎城三人衆」が尼崎城を華麗にご案内!