沿線お役立ちコラム

神戸発の洋風和菓子「野球カステラ」を追いかけて@高速長田~芦屋

志方さんの仕掛ける「野球カステラプロジェクト」

 

チアフルライターやまさんです。

去る8月20・21日に甲子園に隣接する野球用品店「Baseball Park STAND IN甲子園」で野球カステラの販売会が開催されました。これは「野球カステラ愛好会」の志方功一さんによる「野球カステラプロジェクト」のひとつで、2020年から今までに本高砂屋、元町商店街、三宮オーパ、大丸神戸店、そして今回の甲子園で野球カステラの販売会を企画、多くの人に野球カステラの魅力を知ってもらおうと活動しています。

 

 

スタンドイン甲子園で「野球カステラ」の説明をする「野球カステラ愛好会」の志方功一さん。

 

志方さんが野球カステラという一口カステラのことを知ったのは約20年前。就職して間もない頃、いつも散髪に行く板宿の瓦煎餅店「亀楽堂」で野球カステラを発見したそうです。色々と調べていくうちにすっかり野球カステラの虜になった志方さんは、野球カステラを焼いている神戸市内の店舗を訪問するだけでなく、野球カステラの型が作られた頃の野球の歴史を調べ、当時使用されていた野球道具を海外から取り寄せるまでになりました。

 

※現在亀楽堂は野球カステラの製造を行っていません。

 

 

販売会の会場には志方さんが蒐集した明治末期から昭和初期に使用されていた貴重な野球道具や瓦煎餅屋さんの暖簾も展示されていました。これらの野球道具は野球カステラの型を取るときにモデルとなったとされているもので、志方さんによると、道具の細かいディテールまで再現されているそうです。

 

 

これはインジケーターといって、審判がボールカウントを確認するために使用するものです。現在のものと違い「アウト」の表示がありません。このインジケーターは志方さんが個人的にカナダから取り寄せたものだそう。

 

 

1940年代に使用されていたグラブ。焼き型ではボタンの位置が逆になっているものが多いそうです。間違えて型取りしたものが他の煎餅屋さんに広まったのだろうということでした。

 

 

これも野球カステラの型が作られた頃に使用されていたキャッチャーマスクとプロテクター。こちらのキャッチャーマスクの形にもカステラのデザインとそっくりなものがあります。右にちらっと写っているのはインジケーター鞄。こちらは野球カステラを元に志方さんが創作したもの。野球カステラの中には何故かインジケーターがデザインされた鞄もあります。これは実在しないものだそうですが、なぜこんなデザインのカステラがあるのかは謎だそうです。

 

志方さんは神戸煎餅協会との連携プロジェクトとして「焼き型バンク」を作り、古道具屋さんを訪ね歩いて野球カステラの焼き型を集めて保管しています。さらに型のメンテナンスを亀井堂総本店の職人に依頼しており、いつでも使える状態になっているそう。「新しく焼き型を製作してもらうとなると1丁10万円を超える高価なものになります。これは新しくお店を出したいと思った人にとってかなり痛い出費です。さらにお店を始めるとなると最低4丁は焼き型が必要になります。また、新しく型を作ってもらっても、今職人さんが使っているような高品質なものはなかなか作れません。現在、手焼きの野球カステラを作っている店舗は神戸に数軒しか残っていません。野球カステラ屋さんを始めたい、という若い方に焼き型を渡して、是非野球カステラの技術と文化を受け継いでもらえたらと思っています」

 

この日販売されたのは「八木新月堂」と「手焼き煎餅おおたに」の野球カステラです。甲子園の試合開催中だったこともあり、用意されていた150袋は1日目でほぼ完売、出遅れたやまさんはタッチの差でカステラを買いそびれてしまいました。それならこの際野球カステラのことをきちんと調べてみようと、志方さんからお話を伺った後、現在も野球カステラを作り続けているお店を訪ねて歩くことにしました。すると、予想外にいろんなことがわかってきました。

神戸発祥の野球カステラはこうして始まった

 

神戸リガッタ・アンド・アスレチック倶楽部と横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブの野球チームの集合写真(時期不明)。両クラブは1888年以来長年レガッタ、サッカー、野球などのスポーツを通して交流を行ってきました。 出典:KR&AC

 

アメリカ生まれのスポーツ、野球が日本に伝わったのは明治5(1872)年に第一大学区第一番中学(旧開成学校、現在の東京大学の母体のひとつ)のアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンが生徒にベースボールを伝えたことに始まります。明治29(1896)年になると野球は全国的に人気のあるスポーツとなり、大正4(1915)年には初の全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園大会)が開催されました。

 

一方、神戸では明治初期に神戸で名産品となっていた瓦煎餅の店舗で、客寄せのために野菜の形をした一口カステラが店頭で実演販売されていました。ある日、巷を席巻する野球ブームに目を留めたある瓦煎餅職人が焼き型を野球の道具に変えることを思いつきます。こうして完成した野球カステラはたちまち神戸市内の瓦煎餅店の間に広まったそうです。戦前まで「野球カステラ」は「落とし焼き」「スポーツ焼き」とも呼ばれたそうで、長田区の「菊水せんべい」では「スポーツ焼き」という名前で販売されています。

 

  

写真:1885(明治18)年に撮影されたKR&ACのレガッタチーム。右端がKR&ACの創設者A.C.シム氏 出典:KR&AC

 

志方さんによると、野球カステラで使用された野球道具のデザインは、神戸居留地の外国人野球チームが使っていた野球道具に酷似しているそうです。こちらの記事でも紹介した「神戸リガッタ・アンド・アスレチック倶楽部(KR&AC)」は神戸港が開港した2年後の1870年、神戸居留地内で発足したスポーツクラブです。同倶楽部は現在の東遊園地にグラウンドを持っており、サッカー、ラグビー、野球、テニスなどの西洋スポーツに興じ、時には神戸港を訪れた外国船の船員や軍人なども試合に参加したそうです。そして、日本人の中では特に学生たちがこの西洋スポーツに大いに興味を示し、彼らを通して日本人へも西洋スポーツが広まっていったそうです。

野球カステラを訪ねる旅の出発点「楠堂本家」

 

写真:湊川の東山商店街に今も佇む楠堂本家の店舗(2022/9/29撮影)

  

やまさんが初めて「野球カステラ」というお菓子を知ったのは4年前のこと、職場の同僚から休憩のおやつにもらった「楠堂本家」の野球カステラでした。その可愛らしい形と素朴な味に惹かれて後日湊川の東山商店街まで出かけ、ご主人にお話を伺いました。楠堂本家が創業したのは明治40(1907)年。「これからは野球のほうが受けるのでは」とそれまで「八百屋」という名前で焼いていた野菜カステラの型を野球カステラに変えて焼き始めたのは戦後の第1次野球ブームの頃だったそうです。それまで様々な名前で呼ばれていたこのカステラを「野球カステラ」と名付けたのは楠堂本家だと言われています。

 

小麦粉を使って作る瓦煎餅はタネを熱した型に挟んで焼き上げるものですが、野球カステラはこの型にアレンジを加え、瓦煎餅よりも低音でゆっくりと焼き上げます。野球カステラの材料は小麦粉、砂糖、卵、蜂蜜、牛乳だけでできており(店舗によってはこれにみりんなどが加わります)、ほとんどのお店が保存料を使用していないため、賞味期限はわずか3~4日です。楠堂本家のご主人は、うちの野球カステラが素朴で優しい味なのは材料にバターなどの油脂を使っていないからだと言っていました。

 

 

写真:「手焼き煎餅おおたに」でメンテナンス中の楠堂本家の焼き型を見せていただきました。神戸の貴重な文化遺産です。

 

野球カステラを焼いているところを見学させてもらったときには軽々と焼き型を回していたように見えたのですが、この焼き型は1つが4キロもあり、他店のご主人に聞いたところ「楠堂さんの焼き型はとても重くてうちでは振れない」と口を揃えて言うほど重いものだったようです。3代目店主牟礼さんは50年もの間焼き型を振り続けていましたが、両肩を痛めて2020年の12月いっぱいで引退、楠堂本家も常連に惜しまれつつお店を畳みました

長田神社前で父子2代野球カステラを焼き続けて70年「八木新月堂」

 

長田神社の参道沿いで70年間手焼き煎餅を焼いている八木新月堂。今年で74歳の八木和男さんは高校卒業と同時に地元の煎餅職人に弟子入りし、数年間の修行期間を経てお父さんのお店で働くようになったそうです。八木新月堂では野菜カステラではなく、野球カステラを創業時からずっと焼いていたそうです。

 

 

八木さんにお願いして野球カステラを焼いているところを見学させていただきました。

タネを型に落とし込んで…

 

 

型をくるくると返しながら焼いていきます。

 

 

出来上がり。簡単そうに見えますが、4丁の型をバランス良く振りつつ、均一できれいな焼色のカステラが焼けるようになるまでは、かなりの修行期間が必要だそうです。野球カステラはお店ごとにレシピが異なり、味もそれぞれ違なります。どの店舗でもレシピは秘伝とされ、タネの配合比率は門外不出だったそう。

 

 

焼きたては表面がサクサク、中がふんわりしてとても美味。八木新月堂は長田神社の参道にあるので、年末年始には多くのお客さんで大忙しになるそうです。

 

 

八木新月堂の野球カステラの焼き型。1回焼くごとのメンテナンスが結構大変だとのことでした。

 

 

八木新月堂の野球カステラは1袋350円です。

 

 

八木新月堂の野球カステラ。左上から時計回りに野球帽、インジケーター鞄、キャッチャーマスク、キャッチャーミット、ボール、バット、グラブの7種類あります。野球帽の「A」のマークがクラウンという被る部分の正面にあります。インジケーターは鞄タイプ、ボールには縫い目があります。グラブは志方さんのお話の通り、ボタンの位置が逆になっています。最初期のキャッチャーマスクに剣道の面が使用されたことから、他店には剣道の面そっくりの野球カステラも存在します。また、お店によっては優勝旗や優勝カップのカステラもあります。

 

 

 

こちらは八木新月堂で作られているお煎餅。左上からおかきに煎餅を巻いた「おかき巻」、豆入り煎餅の「ピーナッツ」、「野球カステラ」、ピーナッツを練り込んだ「格子」。「格子」は別名「初音」とも呼ばれています。下の2種類は楠木正成公の家紋である菊水紋と武者絵のはんこ(焼き印)を押した瓦煎餅。

 

幕政から王政へと世の中が激変した明治の御一新と呼ばれた時期、楠木正成公は天皇に忠義を尽くした忠君として当時大変人気を集めていました。明治5(1872)年には楠木正成の墓があった中央区多聞通に楠公を主祭神とした湊川神社が創建され、湊川神社の参拝客への土産物として菊水紋や武者絵のついた瓦煎餅が盛んに作られるようになりました。なぜ瓦の形なのかは諸説あるそうですが、瓦が「堅く、家を守る」象徴であることから「堅く日の本を守る楠公」のイメージに合致したのかも知れません。明治7(1874)年に鉄道が開通したことも手伝って、湊川神社には多くの参詣者が訪れ、神戸駅から湊川神社までの通りは旅館や土産物店が立ち並ぶ商店街となり、瓦煎餅店も大変繁盛したそうです。

 

 

型にタネを流し込む「チャッキリ」。八木さんによると、新開地駅のある旧湊川よりも西側ではチャッキリが、東側では「ふくろ」が使われているそうです。

 

 

作業場の壁にはたくさんの焼き型が並んでいます。

 

 

瓦煎餅のはんこ(焼き印)。はんこには定番商品のもの以外にも企業のノベルティや病院、保育園、学校などの施設用のものがあります。

 

「うちは男の子が私1人で、当時親の言うことは絶対だったから自然の流れであとを継いだんだよ。父親の代の頃はかなり儲かっていてね、40年位前までは阪神間に125軒の煎餅屋があった。昔は手軽に食べられるおやつといえば和菓子や煎餅くらいしかなかったからね。今は色んな種類の安いスナック菓子や洋菓子があるでしょう。神戸の瓦煎餅屋は12、3軒にまで減ってしまったよ」瓦煎餅店が繁盛していた頃、職人の給与はサラリーマンの約4倍だったそうです。このため、職人の間でも「俺の焼く煎餅がいちばん技術もあって美味い」と腕を競い合っていたそうです。長年瓦煎餅を焼いてきた八木さんは、煎餅業界の生き字引のような方で、たくさんの面白いお話を伺うことができました。

 

最後に「長年こうして煎餅を焼いてるけど、今でも瓦せんべいを焼くのは難しい。奥の深い菓子だと思う」と八木さんはしみじみと言っていて、とても印象的でした。

 

因みに、長田といえばベビーカステラの「加島の玉子焼」が有名です。ベビーカステラはお祭りなどの縁日で実演販売されていますが、八木さんによるとベビーカステラと瓦煎餅店で焼かれている野菜カステラ、野球カステラはその経歴も味も全く異なるものだそうです。

サラリーマンから転身、女性の弟子も受け入れる「手焼き煎餅おおたに」

 

春日野道商店街から山手幹線を挟んだ山手にある「かすがの坂商店街」。その入口付近に中西市場という小さな市場があり、その並びに「手焼き煎餅おおたに」はあります。最寄駅は阪急春日野道駅ですが、阪神春日野道駅からも徒歩11分で行くことができます。

 

「手焼き煎餅おおたに」は昭和24(1949)年、大正時代からあった中西市場の戦後再オープンと同時に開業しました。春日野道は戦前から「東の新開地」と呼ばれるほど栄えた町で、川崎重工を始めとした工場地帯を擁し、地元の商店街は大いに賑わっていたそうです。中西市場も50年位前まではたいそう賑やかで、大谷さんも子供の頃は商店街の中で行き交うお客さんを眺めながら遊んだそうです。

 

 

やまさんが訪問した日、店主の大谷さんはちょうど瓦煎餅の製作中で、ほぼ無言でひたすら煎餅を焼き続けていました。おおたにでは「ふくろ」を使ってタネを絞り出しています。

 

 

お祖父さんの代から使い続けている火床(ひどこ)。今はガスで焼いていますが、お父さん、お祖父さんの頃は炭火で焼いていたそうです。

 

3代目店主の大谷芳弘さんは元サラリーマンです。「僕のおじいちゃんは腕のいい職人で、何人も弟子を抱えていたそうだよ。でも、よその煎餅屋で何年も修行してから結婚したお父さんは入婿でね、おじいちゃんは何故かお父さんに冷たくて、少しも煎餅の焼き方を教えてくれなかったし、手伝いをしても給料もくれなかった。それでこの中西市場で商売を始めた時はおじいちゃんがここで煎餅を焼いて、お父さんは向かいの店で靴屋をやっていたの。お父さんが煎餅を焼きだしたのはおじいちゃんが亡くなってから。そんな感じでお父さんとおじいちゃんがずっと仲が良くなかったもんだから、僕にもとばっちりが来てね。煎餅屋なんか絶対に継ぐもんかと思ってサラリーマンになったんだよ」

 

 

煎餅を摘んでいる指先をよく見てください。熱い煎餅を素手で取り出すのは無理なので、一般的な職人は爪を長く伸ばしてそれで摘み取るのだそうです。そのため瓦せんべいの職人にとって長い爪は生命より大切な商売道具だったそう。しかしそれを知らずに煎餅を焼き始めた大谷さんは「爪が短ければ作ればいい」と、家にあった適当な金属片を琴の付け爪のように加工し、以来ずっとその手作り付け爪を使っているそうです。「この付け爪なら僕みたいな素人でも女の子でもすぐに焼けるようになるでしょう」

 

大谷さんのところには弟子入り志願者が何人か来ており、そのほとんどが女性なのだそう。「子育てをしながらでもできる仕事を」と3年前に来た女性は「おおたに」で1年間一通り煎餅の焼き方を教わった後、現在は高知県で独立開業し、けっこう繁盛しているのだそうです。「以前二十歳の姪っ子が『私にも煎餅を焼かせて』と言ったことがあり、ちょっと教えたら割と簡単にできた。それを見て、これは女性でもいけそうやなと思って女性の弟子も受け入れているんだよ」煎餅業界では力の弱い女性が焼き型を振るのは無理だということで、ほとんどの煎餅屋さんが女性の弟子入りを断っているのだそうです。そこで唯一女性にも門戸を開いたのが大谷さんです。

 

 

おおたにの焼き型を見せてもらいました。約3キロの重さがあるそうです。他店の型によっては4.5キロのものもあり、500グラム違うと持ったときの重みが全く変わってくるそう。やまさんも持たせてもらいましたが、これを4丁、毎日振り続けるのはかなり大変だろうなと思いました。大谷さんによると「コツを掴めば女性でも問題ない」そうです。

 

 

「おおたに」の野球カステラ。こちらはインジケーターになってます。野球帽の「A」の位置がつばの方にありますね。ボールには縫い目がありません。お店ごとのちょっとしたデザインの違いも興味深いです。

 

大谷さんが瓦煎餅の勉強を始めたのは会社を定年退職するわずか6年前、今から20年前にお父さんが亡くなり煎餅屋を畳もうとしたときのことです。お母さんの「絶対ここを離れたくない。駄菓子屋でも何でもやってここに住み続けたい」という言葉に煎餅を焼くことを決めたそうです。当時妻を亡くし、小学生の子供を抱えていた大谷さんは、定年退職までの6年間を、昼は会社で働き夜と休日は煎餅と格闘するという24時間休み無しの生活を送ったそうです。「お母さんがお父さんのところへ行くまでと思ってやってたけど、4年前、お母さんが亡くなるほんの2週間前に弟子志願の女性が来て『修行させてほしい』と。それでやめられなくなったんだよ」

 

「親戚筋の煎餅屋さんへ行って焼いているところをビデオに撮らせてもらってね、それを見ながら練習したら、1週間位でできるようになった。普通は師匠のところで何年も修行するらしいから、僕はかなり特殊なほうやと思う。僕が教えた女の子も覚えるまで1年間かかったものね」

 

 

左上から「キャッチャー君」「ひめちゃん」「ももちゃん」、左下から「ジープ君」「バター」、花のはんこを押した瓦せんべい。瓦煎餅店では菊水紋の瓦煎餅といった共通のラインナップ以外に、お店毎に独自のオリジナル商品も焼いています。「ひめちゃん」や「ももちゃん」は季節の行事のときに幼稚園や保育所から注文が入るそう。型を使って焼ける限界までバターを生地に練り込んだ「バター」も人気商品です。レトロ好きのやまさんはゆる~い感じの「ジープ君」に惹かれます。

 

 

おおたにでは花柄や季節をかたどった瓦せんべいも女性から「可愛い」と人気があるそうです。

 

「今もうちに修行に来たいと言ってる女性がいてね、僕で良ければ誰にでも教えるつもり」。おおたにでは来年から新しいお弟子さんを受け入れ予定だとか。近い将来神戸に新しい野球カステラのお店が誕生するかも知れませんね。とても楽しみです。

阪神間で唯一ABCカステラを焼いている「田中金盛堂」

 

八木新月堂のご主人のお話によると、神戸の瓦煎餅店で作られているカステラには3種類あり、1つ目が全国に広まった野菜カステラ、2つ目が神戸限定の野球カステラ、3つ目がABCカステラ。ABCカステラは明治時代から神戸の瓦煎餅店で焼かれていたそうですが、神戸市を含む阪神間で今も作られているのは「田中金盛堂」だけだそうです。田中金盛堂は阪神芦屋駅からわずか徒歩3分のところにあります。

 

 

工房がガラス張りになっており、タイミングが合えば、お煎餅を焼いているところを見学することができます。

 

田中金盛堂は大正13(1924)年に灘区の阪神西灘駅―大石駅あたりで開業しました。戦争で店舗を喪失した昭和20(1945)年に現在の場所へ移転、トータルで98年間お店の暖簾を守っているそうです。

 

 

三代目店主の田中克志さん。やまさんが伺った日は二代目の幸男さんと一緒に働いていました。田中金盛堂でも「ふくろ」が使われています。幸男さんにはお兄さんがいて、お兄さんもまた灘区で瓦煎餅店を開いていたそうです。

 

 

ABCカステラの焼型。24文字全ての型が揃っているそうです。

 

 

ABCカステラは1袋270円。

 

 

ABCカステラを並べてみました。幸男さんのお話によると、戦争でアメリカに負けたのだから、これからは英語の時代だということでABCカステラを焼くことに決めたそうです。「おやつを食べながら勉強もできて、おまけに頭の栄養にもなる」とお客さんと冗談を言っているそう。こちらのカステラも保存料を使用していないため、賞味期限は5日ほどです。

 

 

左上が飴を煎餅で巻いた「長きぬ」、上中央がサクサクと軽い口当たりの「パピロ」、右上が「みそせんべい」、右下が「だるませんべい」。だるまは元々お正月用の季節限定商品でしたが、人気があったため1年中作るようになったそうです。他にも瓦煎餅をはじめ、おかきや豆菓子など、たくさんの種類を扱っています。見ているだけでも楽しいです。

新機軸で日本の煎餅業界に革命を起こした「亀井堂総本店」

 

ここで、野球カステラの元祖にあたる「野菜カステラ」、さらに野菜カステラを生み出した瓦煎餅の歴史についてご紹介したいと思います。

 

明治元(1968)年に神戸港が開港すると、神戸に居住する外国人向けに小麦粉や砂糖、卵が港からたくさん入ってくるようになりました。小麦粉のことを「メリケン粉」とも言いますが、これは小麦粉が神戸の「メリケン波止場(現在のメリケンパーク)」で荷揚げされていたから、という説があるそうです。「メリケン波止場」という名称はこの船着き場付近にアメリカ領事館があったことからつけられました。明治6(1873)年に創業した亀井堂総本店のHPによると、初代店主松井佐助氏は当時神戸で入手しやすかったこれらの材料を使い、従来の米を原料とした煎餅とは異なる洋風和菓子「瓦せんべい」を創作したそうです。灘の酒以外にこれといった名産品のなかった神戸で瓦せんべいは新たな名物として評判となり、洋風で贅沢なお菓子だった「瓦せんべい」は「贅沢せんべい」「ハイカラせんべい」とも呼ばれたそうです。瓦煎餅は発売当初、とても斬新なお菓子だったんですね。

 

 

左から神戸市のシビックプライド・メッセージを使った「BE KOBE瓦せんべい」、野菜カステラの本家オリジナル版「秋の山」、「クレームパピロン」、中央下は楠木正成の家紋である菊水紋が入った「瓦まんじゅう」。

 

 

亀井堂総本店の「秋の山」。今や全国のスーパーでもみかけるようになった野菜カステラの本家本元です。現在神戸・阪神間の瓦煎餅店で野菜カステラを扱っている店舗はここだけだそうです。シュリンク包装されていますが、こちらも保存料を使用していないため賞味期限は10日間程です。よく見ると野菜だけでなく桃や栗の形をしたカステラも。これはやまさんの個人的な意見ですが、野菜カステラはお茶席などで供された干菓子「吹き寄せ」の流れを汲んでいるのかも知れません。

 

 

亀井堂総本店の松井さんのお話によると、創業者松井佐助氏は生まれながらのアイデアマンで、商売上でも様々な新しいことを試みたそうです。例えば、瓦せんべいには輸送の際に割れやすいという欠点がありました。この問題を解決できないものかと新たに開発されたのが「やわらか焼き」というカステラと煎餅を合わせた柔らかいお煎餅。これと同じ頃、野菜や果物の型を使ったカステラ焼き、「野菜カステラ」も作られるようになりました。明治23(1890)年に東京で開催された第3回内国勧業博覧会に出品された瓦せんべい、やわらか焼き、野菜カステラは大好評を博したそうです。この博覧会をきっかけとして野菜カステラが全国に広まったのだろうということです。同じ年に亀井堂総本店は東京に進出、東京の人形町でも野菜カステラから派生した人形焼が作られるようになりました。

 

 

明治時代の亀井堂総本店。看板に「教育滋養煎餅アルファベット」とありますが、これはABCカステラのことだそうです。スーパーなどでアルファベットの形のビスケットやチョコレートをよく見かけますが、明治時代には既にあったんですね!神戸が当時いかに時代の先端を行っていたかがわかります。亀井堂総本店にはこの当時の焼き型が残されており、数年前の夏のお祭りで実演販売イベントをしたところ、大変好評だったそうです。

 

瓦煎餅の焼き印には様々なデザインがありますが、これを企業のノベルティとして利用することを思いついたのも松井佐助氏だそうで、川崎造船所など神戸の大企業のノベルティ煎餅を製造したそうです。現在、他の瓦煎餅店でも作られているノベルティ煎餅は様々な企業や団体からの需要があります。

 

 

松井佐助氏が製作した合成写真。新しいことにチャレンジすることが好きな人物だったそうです。 出典:亀井堂総本店

 

 

出典:亀井堂総本店 twitter

 

 

出典:亀井堂総本店 twitter

 

今年の4月29、30日、5月7日の3日間、三宮オーパで、さらに5月21日には大丸神戸店の「MOTOMACHI ROOFTOP FEST」で志方さんの企画による野球カステラの展示販売会が開催されました。亀井堂総本店ではこのときに初めて野球カステラの製作販売を行いました。こういった形で野球カステラの輪が少しでも広がっていくといいですね。

初めて野球カステラを商標登録した「本高砂屋」

 

大正10(1921)年に野球カステラを「野球」という名称でいち早く商標・意匠登録したのは元町商店街に店舗を構える本高砂屋です。現在和菓子の「高砂きんつば」とともに「エコルセ」「マンデルチーゲル」などのオリジナル洋菓子で有名な本高砂屋ですが、創業時は瓦煎餅店としてスタートしたそうです。

 

写真:本高砂屋で使用されていた野球カステラの型(左端)。他店の型と比べると小振りで約3.5キロ位だそう。店内のレジ前に展示されています。左下隅には「野球」と書かれたパッケージも。

 

 

出典:野球カステラ愛好会 Instagram

 

本高砂屋と野球カステラの知られざる事実を発見したのは野球カステラを調査していた志方さんです。このことが縁となり、2020年の12月には志方さんの提案により本高砂屋で野球カステラが復刻販売されました。復刻にあたり、長年本高砂屋に勤めている職人の山本さんが、兵庫区下祇園町の瓦煎餅店「久井堂」で研修を受け、本高砂屋に残されていた100年前の焼き型を使って焼き上げました。

 

 

出典:野球カステラ愛好会 Instagram

 

野球カステラ愛好会のインスタグラムには野球カステラにまつわるトリビアやイベント情報が満載です。ぜひフォローしてくださいね。

 

野球カステラの実演をした山本さんによると「カステラのサイズがまちまちで1回目はうまく焼けても2回目は焦げてしまったりと、焼き型の温度調整がとても難しいんです。また火床のガスを止めてしまうと型の温度が下がるので、1度焼き始めるとノンストップで作業を続けなくてはならないため、店頭での実演販売は本当に大変でした」とのこと。そうした山本さんの苦労の甲斐あって、当日の野球カステラの実演販売は大好評だったそうです。

 

 

写真:本高砂屋の主力商品「エコルセ」。左が神戸限定「WE LOVE KOBEパッケージ」、右が「神戸人形パッケージ」。神戸人形とは明治中期に神戸で誕生したからくり人形です。長らく廃れていましたが、2015年にウズモリ屋の神戸人形作家吉田太郎氏が復刻させました。本高砂屋では現在吉田氏が製作した神戸人形の特別展示されています。店頭には阪神タイガースバージョンのかわいいパッケージも並んでいました。

 

戦後間もない昭和45(1970)年に発売された「エコルセ」はごく薄く焼いた生地を何層にも重ねて焼いたお菓子で、本高砂屋の3代目社長がヨーロッパで出会ったクレープに瓦煎餅を焼く技術が合わさってできた商品なのだそうです。形は変わっても瓦煎餅の伝統はこうして脈々と受け継がれているのですね。

瓦煎餅のルーツは欧米人の朝食ワッフルだった?

 

巻菓子のある静物Still-Life with Wafer Buiscuits(Le-dessert-de-gaufrettes) 1630s

Lubin Baugin(1612-1663) ルーブル美術館所蔵 Wikimedia commons

 

ところで、神戸発祥とされている瓦煎餅はどのようにして誕生したのでしょうか?調べていくと、現在「パピロ」「クリームパピロ」「フレンチパピロ」などと呼ばれているお菓子にその手掛かりがありました。

 

本高砂屋では、大正11(1922)年に「パピロ」の発売を始めました。これは薄く焼いた煎餅を柔らかいうちにくるくると巻いた葉巻のような筒状のお菓子で、中にクリームを詰めたものです。昭和25(1950)年には、これに改良を加え3等分にカットした「クリームパピロ」を発売、昭和40年代には倍賞千恵子さんが歌うCMソング「パピロのうた」により一躍有名になりました。八木新月堂の八木さんによると、この「クリームパピロ」は瓦煎餅業界にとって大変エポックメイキングな商品だったそうです。本高砂屋の広報の方に伺ったところ、「パピロ」「クリームパピロ」はフランス菓子のパピヨット(Papillote)が元になっているのではないかとのこと。これはフランスのチョコレートをメッセージが書かれた紙で包んだお菓子を指し、「パピヨット」とはフランス語で「巻き紙」のことだそうです。

 

現在、この「パピロ」「クリームパピロ」は全国に類似商品がたくさんあり、スーパーやお菓子の専門店でもよく見かけます。神戸風月堂でも「パピヨット」という洋風薄焼き煎餅を巻いたお菓子が作られており、亀井堂総本店でも昭和27(1952)年から「クリームハッピー」という商品が製造されています。これは亀井堂の4代目誕生を記念して開発されたもので、現在は「クレームパピロン」という名前で店頭に並んでいます。やまさんが訪ねた他の瓦煎餅店にもそのお店独自の「パピロ」「クリームパピロ」がありました。神戸の煎餅店以外にも、九州の七尾製菓が1962(昭和37)年から「フレンチパピロ」という商品を発売しており、東京の製菓会社ヨックモックでも「シガール」というパピロによく似た形状の洋菓子を1969(昭和44)年から販売しています。ヨックモックの創業者藤縄則一氏は1932年から数年東京・人形町の菓子屋で修行したそうですから、恐らく氏も元は煎餅や人形焼の職人だったと思われます。やまさんは、このタイプのお菓子がなぜ煎餅職人によって戦後爆発的に広まっていったのかとても興味深く思いました。そしてある日、ヨックモックのホームページを見ていたやまさんは「シガール」開発のヒントにされたというある絵画を見て思わず目を見張りました。

 

それはリュバン・ボージャンというフランス人の画家が1630年代に描いた「巻菓子のある静物」という絵画。キャンバスに描かれたその巻菓子は「パピロ」そっくりの姿をしていました。さらにその英語とフランス語のタイトルを見てびっくり。英語だと「Still-Life with Wafer Buiscuits」フランス語だと「Le-dessert-de-gaufrettes」。えっ、ウェハース=ゴーフレット?これは一体… 。更に調べていくとウェハース、ゴーフルともにオランダ発祥の蜂の巣状の凹凸のある焼き菓子であるワッフルを指すことがわかりました。神戸風月堂の「ゴーフル」と17世紀にヨーロッパで作られていた「巻菓子」は元々同じものだったというのでしょうか?

 

 

ワッフルメーカーを使ってワッフルを焼く様子が描かれた1800年代の絵画

Making Waffles B.DE LOOSE 1853年 Wikimedia commons

 

ワッフルについて調べていくと、ワッフルとは「小麦粉、卵、バター、砂糖などを使った生地を、二枚の鉄板(ワッフル型)に挟むような形で焼き上げたお菓子」で、英語だとwaffle(ワッフル)、オランダ語だとwafel(ワーフル)、フランス語だとgaufre(ゴーフル)で、これらは全て蜂の巣を意味する「wâfela(ウェーハ)」という言葉を語源としているそうです。日本では夫々別物として認識されているこれらの食べ物は欧米では同じものだったのです。

 

さらに2枚の鉄板に生地を挟んで焼き上げるワッフルの製法を見ると、瓦煎餅の製法にそっくりだとおもいませんか?この製法は古代ギリシャ(紀元前7000~3200年)で食べられていたオベリオス(Obelios)という種無しパンの一種にまで遡るそうです。その焼き型は凹みのない平らな2枚の鉄板で、日本の豆入り煎餅やゴーフルの型によく似たものだったとか。このオベリオスの製法は、ギリシャの衰退とともにローマ帝国へと連れてこられたギリシャのパン職人やキリスト教の宣教師を通してヨーロッパへと伝わったのだそうです。13世紀頃までにはハニカム模様のワッフル型も作られ、型には家紋や風景、幾何学模様などの刻印もあったそうです。そして14世紀にはオランダで現在のものと同様のワッフルメーカーが考案されました。17~18世紀になると、ヨーロッパで砂糖が安価に手に入るようになり、生地に砂糖を加えた甘いワッフルを庶民でも食べられるようになりました。1620年頃になると、オランダ系移民によってアメリカ大陸へもワッフルが持ち込まれ、朝食やお菓子として日常的に食べられるようになったそうです。

  

ブリュッセル風ワッフル用アイロン

 

ブリュッセル風ワッフル用アイロン

出典:Wikimedia Commons

 

ここからはやまさんの推測になりますが、神戸港が開港した当時、オランダ人やフランス人、アメリカ人、イギリス人達は調理道具としてワッフルメーカーを居留地に持ち込んだのではないでしょうか。当時の煎餅職人の誰かが神戸で外国人と交流する中で小麦粉や砂糖、牛乳とともにパンやワッフル、そしてワッフルメーカーを目にした可能性はとても大きいと思うのです。江戸時代、お米の煎餅は網の上で炭火によって1枚1枚焼かれていました。これを煎餅に応用することを思いついたのが明治初期に瓦煎餅を発明した亀井堂本家の松井佐助氏をはじめとした煎餅職人たちだった… 。そうすれば瓦煎餅店で煎餅とはスタイルの異なる野菜カステラや野球カステラがほぼ同時期に焼かれるようになった理由もわかります。薄い煎餅もふわっとしたカステラも欧米では同じ種類のものと見做されているからです。実は明治時代に兵庫の温泉地有馬で作られ始めた「炭酸せんべい」の焼き型や神戸風月堂のゴーフルの焼き型もワッフルメーカーとよく似ています。瓦煎餅、野菜・野球カステラ、ゴーフル、炭酸せんべい… 現在神戸銘菓とされている洋風和菓子の先祖は欧米人の朝食・お菓子ワッフルだったのかも知れません。

 

1810年にオランダで生まれたストロープワッフル

 

1810年にオランダで生まれたストロープワッフル

出典:Wikimedia Commons

 

これを熱いうちにくるっと巻けばアイスクリームを入れるワッフルコーンになります。ワッフルコーンは1904年にアメリカのセントルイスで開かれた万国博覧会で誕生したそうです。

 

ストロープワッフルの焼型

 

ストロープワッフルの焼型

出典:Wikimedia Commons

 

ゴーフルの焼き型とよく似ていますね。

 

 

本高砂屋店内に飾られている「パピロ」の焼き型。野球カステラの焼き型とともにワッフルメーカーとよく似ています。

 

このように見てみると、瓦煎餅が日本のお菓子である煎餅と西洋のお菓子ワッフルが融合した言わば和魂洋才菓子であったことがわかります。本高砂屋の「パピロ」「クリームパピロ」はフランスで作られていたお菓子にヒントを得て作られたものだそうです。それが絵画「巻菓子のある静物」と同一のものかは定かではありません。さらに上で述べたような話は瓦煎餅メーカーや神戸瓦煎餅協会の公式な見解ではありません。やまさん的にはなかなかの名推理だと思っているのですが果たしてどうでしょう?

 

実は北海道の根室でも「オランダせんべい」という名前のワッフルのような煎餅が作られています。これは昔長崎に伝わったオランダ菓子のワッフルが「おらんだ焼」「オランダ煎餅」として北海道までニシン・鮭・イワシ漁に来ていた長崎船団の船乗りのお菓子として富山・函館・根室に伝わったものと言われています。長崎では1600年代にはすでにポルトガルから伝来した南蛮菓子を元にカステラが製造されています。ワッフルは西洋人にとってのパンのようなものだったそうですから、長崎の出島に暮らしていたオランダ人なども恐らくワッフルメーカーを持ち込んでいたことでしょう。こうしてみると、ワッフルは江戸時代には既に日本に伝わっていた可能性がありますね。

神戸以外に野球カステラってあるの?

 

写真:にしき堂の「広島東洋カープ野球カステラ」 出典:にしき堂

 

神戸・阪神間以外に野球カステラはあるのでしょうか?実は広島のにしき堂というもみじ饅頭店で広島東洋カープの公式認定を受けた「広島東洋カープ野球カステラ」が販売されています。こちらの野球カステラの野球道具のデザインは現代風。野球帽のカステラはカープのマーク入り。カープをイメージしたオレンジ風味です。

 

にしき堂の方のお話によると、経緯は不明ですが野球カステラはその昔広島市内でも作られていたそうです。そのことを覚えていた社長が、広島カープの新球場「MAZDA Zoom-Zoomスタジアム」を建設中だった同球団に「カープを盛り上げたい」と声をかけたところ、2009年2月に公式商品化し発売となったそうです。型も新たに新調したそうで、ひょっとするとこの野球カステラが国内でもっとも最新タイプの野球カステラになるかもしれません。

 

このほか、奈良、和歌山、大阪でもわずかですが野球カステラを焼いているお店があるそうです。これは昭和56(1981)年にポートアイランドで開催された「神戸ポートアイランド博覧会」がきっかけとなっています。別名「ポートピア’81」とも呼ばれたこの一大イベントは1980年代におこった地方博覧会ブームの火付け役となり、半年間の会期中1,610万人もの来場者が訪れました。このときに神戸土産として瓦煎餅や野球カステラが観光客からひっぱりだことなり、神戸市内の煎餅店だけでは製造が追いつかず、奈良や和歌山といった近県の煎餅店に大量の製造発注が舞い込んだそうです。これがきっかけとなり、和歌山や奈良にも野球カステラが伝わったようです。

 

時は下って2020年、「焼き型バンク」のための中古の型を探していた志方さんは、和歌山の古道具屋さんで12丁の野球カステラの型が売られているのを発見しました。ひょっとして全国の意外な場所に野球カステラは伝播しているのかもしれません。

台湾にも伝わっていた瓦煎餅

 

写真:八木新月堂の瓦煎餅

 

神戸発祥と言われる瓦煎餅ですが、「手焼き煎餅おおたに」の大谷さんによると、お父さんが亡くなった頃、ある台湾人から問い合わせがあり「お店の焼き型一式を売って欲しい」と言われたそうです。聞くと台湾にも瓦煎餅を商うお店がけっこうあるのだとか。調べてみると、日本統治時代に日本人から瓦煎餅の焼き方を教わった台湾の方がいるそう。そのひとつが台南にある「連得堂餅家」で、今でも老舗の煎餅屋さんとして商売をされているそうです。台湾のカステラと言えば「澎澎(ポンポン)」に代表されるふわふわの台湾カステラをイメージしてしまいますが、ひょっとすると野菜カステラや野球カステラを焼いているお店もあるのかも知れませんね。

 

野球カステラに始まった神戸の洋風和菓子を訪ねる旅は海を越えた意外な場所へと帰着しました。元はと言えば海外から伝わったお菓子が形を変えて日本から海外に伝わっていると知ったやまさん、製菓文化のダイナミズムに触れて大いに感動を覚えたのでした。

実はサッカーボールのカステラも

 

写真:亀栄堂の「ふっとぼーるカステラ」の型。4.5キロもあるそうです。

 

実は神戸のカステラには野菜、野球、ABC以外にもう1種類ありました。それはサッカーボールやユニフォームの形をした「ふっとぼーるカステラ」。ヴィッセル神戸のお膝元、兵庫区のノエビアスタジオの近くに店舗を構えていた亀栄堂オリジナルの型で、つい数年前まで製作されていました。ご主人の引退により亀栄堂は閉店しましたが、焼き型は現在志方さんの手元にあるそうです。ですので、ひょっとすると「ふっとぼーるカステラ」がまた復活するかも知れないそうです。次回の野球カステラ販売会に期待大ですね。そして、今度こそ販売会で野球カステラをゲットしたいです。

 

野球カステラのお店を訪ね歩くうちに気づいたのですが、商店街や市場には必ずと言っていいほど和菓子屋さんや瓦煎餅屋さんがあるようです。これは子供の頃からスーパーに馴染んでいて、商店街や市場とあまり縁のなかったやまさんには新しい発見でした。今では希少な存在となった手焼きの瓦煎餅店、是非訪ねてみてくださいね。

 

STAND IN 甲子園

アドレス:西宮市甲子園町8-15 甲子園プラス1F 阪神甲子園駅から徒歩5分

営業時間:10:00~20:00

定休日:年中無休

電話:0798-42-8955

 

 

【八木新月堂】

アドレス:神戸市長田区長田町1-3-1 高速長田駅から徒歩5分

営業時間:10:00~18:30

定休日:日曜日

電話:078-691-5474

 

 

【手焼き煎餅おおたに】

アドレス:神戸市中央区割塚通7-2-11 阪神春日野道駅から徒歩11分

営業時間:10:00~17:00

定休日:月曜日

電話:090-8380-7844

 

 

田中金盛堂

アドレス:芦屋市大桝町7-5 阪神芦屋駅から徒歩3分

営業時間:8:30~18:00

定休日:火曜日

電話:0797-22-2573

 

 

亀井堂総本家 元町商店街本店

アドレス:神戸市中央区元町通6-3-17 阪神西元町駅から徒歩1分

営業時間:10:00~19:00

定休日:年中無休

電話:078-351-0001

 

 

本高砂屋 神戸元町本店】

アドレス:神戸市中央区元町通3-2-11 阪神元町駅から徒歩3分

営業時間:10:00~19:00

定休日:第1・3水曜日(祝日は営業)

電話:078-331-7367

 

 

【参考】

神戸煎餅協会HP

野球の歴史 野球殿堂博物館HP

神戸リガッタアンドアスレチック倶楽部HP

神戸人形ウズモリ屋HP

ワッフルの起源・歴史・種類についてールーツは古代ギリシア?なぜベルギーが有名? +雑学

YOKU MOKU HP

オランダせんべい 端谷菓子店HP

ソフトクリームのコーンは、ワッフル屋のアイデアから生まれた ニッポン放送NEWS ONLINE

 

文/チアフルライター やまさん

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