沿線お役立ちコラム

【双葉堂】繁華街のど真ん中に残る街の足跡@三宮市場

戦後間もなく三宮市場で開業した和菓子屋さん、双葉堂

神戸在住レトロ好き、チアフルライターのやまさんです。毎日大勢のお客さんで賑わう繁華街三宮センター街。その一角に市場が隠れているのをご存知ですか?今回は意外と知られていない「三宮市場」をご紹介します。

 

三宮センター街の山側を占めるショッピングビル「さんプラザ」「センタープラザ」そして「センタープラザ西館」。その最も西側にある「センタープラザ西館」の地下1階に「三宮市場」と呼ばれる一角があります。

「双葉堂」は三宮市場の中にある和菓子・お祝餅・お赤飯を製造販売しているお店です。双葉堂は戦後の三宮市場草創期にあたる昭和22(1947)年3月に開業しました。双葉堂を営んでいるご夫婦のお話によると、今のご主人は先代が経営していた頃から双葉堂に勤めていましたが、昭和56(1981)年に店を屋号ごと引き継ぎました。以来40年ここでずっと双葉堂を営んでいるそうです。

現在では飲食店のほうが多い印象の三宮市場ですが、ご主人のお話によると、三宮市場は豆腐屋さん(浅野商店)、肉屋さん(精肉丸高)、かしわ屋さん(大山商店)などもある高級食材の市場で、料亭やレストランにも納品していたそうです。双葉堂もお赤飯を結婚式場などに納めていました。震災前までは年末になると西宮などの遠方からもお客さんが大勢訪れ、大変賑わったそうです。

 

実はこの「三宮市場」、大正時代に開設された公設市場にまで遡るとても歴史のある市場だと教えていただきました。さらに調べていくと、三宮センター街はこの元公設三宮市場、闇市を元にした「三宮ジャンジャン市場」、そして戦前から三宮1丁目・2丁目にあった商店群が融合し、形成されていったショッピング街だということがわかってきました。

米騒動から生まれた公設市場

【写真】大正7(1918)年に米騒動により焼き討ちにあった鈴木商店本店

神戸アーカイブ写真館 提供

 

大正3(1914)年〜7(1918)年にかけて起こった第一次世界大戦。この戦争をきっかけに米価が暴騰、米が地主や商人の投機の対象となり、買い占めや売り惜しみをするようになりました。このことが一般庶民の困窮と反感を買い暴動が頻発、米騒動へと発展します。

 

米騒動のきっかけは、大正7(1918)年7月上旬に富山県の女性陸仲仕(艀から船の積荷を降ろす港湾労働者)25、6名が高松への米の積出しを止めるよう役場に日参し訴えたことが新聞により広まったことによるもの。これが瞬く間に全国へと飛び火し、翌月には全国の都市部で暴動や打ち壊しが頻発しました。神戸市でも同年8月11日に当時の財閥・鈴木商店が、新聞社により米の買い占めを行っていると事実無根の噂を立てられ、本店や社員寮が焼き討ちにあっています。鈴木商店の社屋のひとつが当時全国中等学校優勝野球大会(現・夏の甲子園大会)の会場だった鳴尾球場に近く、周辺の治安が悪化していたため、8月16日の大会が中止されました。

【写真】戦前の湊川公設市場

神戸アーカイブ写真館 提供

 

第1次世界大戦後の生活物資の高騰への対応策として、食料品価格の引き下げ、安定化を図るため、東京、大阪を始め全国各地で日用品廉売所を官民合同で開設したのが公設市場の始まりです。大阪市中央卸売市場本場市場協会のHPによると、大正7年4月、大阪市が全国にさきがけて公設小売市場を開業します。米騒動が起きた8月に、大阪市設小売市場において、白米の正価販売が実施され、好評を得たことから六大都市(東京・京都・大阪・横浜・神戸・名古屋)を中心に各都市に公設小売市場が開業しました。公設小売市場の開業とともに、卸売市場の方でも整備の必要が生じたため、大正12(1923)年「中央卸売市場法」が制定されました。

 

大正13年に発行された「神戸市公設市場概況」によると、神戸市では大正7(1918)年11月の生田川、湊川、そして大正8(1919)年5月の芦原を皮切りに、大正9(1920)年5月に熊内、三宮、宇治川、平野、入江、大正11(1922)年11月に長田、12(1923)年11月に西須磨、同12月に東須磨、併せて11箇所に公設市場が開設されました。公設市場とともに私設市場も増え、昭和の始めには神戸市内の75ヶ所に私設市場があったようです。

戦後闇市を基礎に急成長した街、三宮

【写真】三宮ジャンジャン市場

国鉄線沿いにあるのが元三宮自由市場(現在の神戸交通センタービルと三宮センイ商店街周辺)

神戸アーカイブ写真館 提供

 

「闇市に集まってくる人々のエネルギーを供給していたのが三宮交差点西南の一帯で、いまはセンタープラザ東館に吸収されている地帯はバラックや屋台の飲食ゾーンだった。食えるものなら、イモのつるでもトカゲでも、酔えるものならメチルアルコールだってけっこう、という時代だったから、麦飯やどぶろくは引っ張りだこで胃袋に流し込まれていた。

そごうの東南一帯はイーストキャンプと呼ばれた占領軍の基地で、基地から流出した、あるいはくすねてきたバターやコーンビーフの缶詰も豊富だった。「じゃんじゃんもうかってしょうがない」ところから「じゃんじゃん市」となった。」

ー こうべ芸文 No.83 米田定蔵『三宮界隈の記憶』より

 

昭和20(1945)年、終戦後まもなく、国鉄三ノ宮駅から元町駅の高架下にかけて大規模な闇市が誕生しました。それは「三宮自由市場」と呼ばれ、三ノ宮~神戸間の高架下、約2キロにわたりピーク時で約1,500軒の屋台が並びました。なんでも揃っていると言われたことから、遠方から買い出しに訪れる客も多く、国内でも随一の規模と賑わいを誇りました。しかし当時、生活物資は物不足により全て配給制。正規ルートで食料や衣料などの日用品を手に入れるのは大変困難でした。闇市において、物資の入手経路は産地への買い出しや、統制組合などからの横流れ品、生産工場の不正放出品、盗賊品など多岐にわたっており、犯罪や暴力事件の温床ともなっていました。

【写真】三宮国際マーケット(現在のサンパル周辺) 

神戸アーカイブ写真館 提供

 

昭和21(1946)年、全国的な闇市の取り締まりが始まります。「三宮自由市場」は商業組合、警察、GHQの協議により分散移転となり、「元町高架通商店街」「国際マーケット」と名前を変え、バラック群は撤去されました。この時立ち退きを余儀なくされた飲食店の一部が元になり「三宮ジャンジャン市場」が形成されたと言われています。

 

昭和21(1946)年、三宮町1丁目の北東部(現在のファッションビル丸井及びさんプラザ周辺)に「三宮ジャンジャン市場」というバラック飲食店街が登場しました。この飲食店街は「三宮市場」「ジャン市」とも呼ばれ、狭い路地に続く3ヶ所の入口には「ココが名代のジャンジャン市場」と大書した看板が立っていたそうです。鯨肉ステーキやモツ、関東煮、豚肉などの惣菜を酒と共に提供し、早朝から夜更けまで営業、神戸港で働く港湾労働者たちの胃袋を支える場所として大いに賑わいました。昭和30(1955)年頃から、従業員のひとりに「白蘭のような美人」が現れたことにより、この美女を目当てに作家や画家などの文化人、サラリーマンや学生なども多く訪れるようになったそう。しかし昭和40(1965)年、衛生面での問題と火事が相次いだことにより「三宮ジャンジャン市場」は姿を消します。

【写真】明治40(1907)年から営業している「ヤマダサイクルセンター」

三宮ジャンジャン市場があった場所です。

 

一方で戦前、三宮1丁目の「三宮本通り」に60~70軒の小売商店が並んでいました。戦後、店主たちは商店会を結成し、昭和21(1946)年秋に「三宮センター街」が誕生します。商店会では一貫して正規ルートの商品を売ることに努め、鈴蘭灯やアーケードの設置、道路舗装などの努力を重ねた結果、徐々に客足が伸び、現在では神戸の表玄関になるほどの発展を遂げました。

【写真】交通センタービルから見た「さんプラザ」「センタープラザ」「センタープラザ西館」

 

三宮ジャンジャン市場跡地では1966年から、神戸市による三宮市街地改造事業計画が始まり、1970年にさんプラザが、1975年にセンタープラザが、1978年にはセンタープラザ西館が竣工、現在の三宮センター街の一角を形成しました。3つのビルは全体が船の形になるように設計されており、神戸在住の鳥瞰図絵師青山大介氏は、これら3つのビルを形容して「機動戦士ガンダムのホワイトベースのよう」と言っています。夫々のビルには地下1階から3階にかけて140~150もの飲食店、ブティック、靴、時計、雑貨店が軒を連ね、40年以上神戸っ子や観光客の間で親しまれています。

【写真】三宮市場が地上にある頃から営業している「中本調理道具店」

 

現在、毎日のように買い物客で賑わいを見せている三宮センター街。そこは戦前から地道な商いを続けてきた公設三宮市場と商店会の努力、そこに闇市の混沌としたエネルギーが混ざり合い、徐々に洗練されていったハイブリッドな街であることがわかります。

【写真】センタープラザ西館の建設現場。三宮市場がまだ残っている。

左端の高いビルがセンタープラザ、その左にちらっとさんプラザも見える。

昭和51(1976)年撮影 「センタープラザ西館10年のあゆみ」より

 

昭和45年に発行された「神戸市小売市場連合会20年史」によると、公設三宮市場は大正7年(「神戸市公設市場概況」では大正9年)、会員数37名により創立されました。公設市場では食品の価格が一般価格より低く抑えられ、神戸市の主導のもと、市民が安く安定した価格で、一定以上の品質の商品を安心して購入できるよう便宜が図られていました。「神戸市公設市場概況」によると、旧居留地に隣接し周囲には官公庁が多かったため、富裕層や外国人の顧客が多く、肉類やお菓子などの高級品の売れ行きが良い、という特徴がありました。同市場は昭和20(1945)年3月の神戸大空襲で全焼するまで公設市場として営業していました。

 

戦後の昭和21(1946)年10月、元公設三宮市場の店主たちは焼け跡にバラックを建て、3、4年の間闇市として立て直しを図ってきましたが、昭和24(1949)年2月に火災で再び全焼。しかし、全員一致協力して同年7月19日に「元公設三宮市場事業協同組合」として復旧、阪神間の台所をあずかる高級市場「三宮市場」として再発足しました。三宮市場は戦前と同様、高級食料品市場として顧客から強い支持を受けました。顧客層もレストラン、バーなどの飲食店関係者が多く、元町商店街の側にある老舗喫茶店「エビアン」のマスターによると、地上にあった頃の三宮市場は買い物客がひっきりなしに訪れ、大変な賑わいを見せていたそうです。

「センタープラザ西館10年のあゆみ」より

【写真】オープン当初の三宮市場 

「センタープラザ西館10年のあゆみ」より

 

1978(昭和53)年、三宮市街地改造事業計画の推進とともに三宮市場は地下に引っ越すこととなり、現在の「三宮市場」がセンタープラザ西館のオープンと共に誕生しました。

 

時代の経過とともに三宮市場はどの店舗でも高齢化が進み、跡継ぎがいないためそのまま閉店、その後に別の飲食店が入居、現在の姿になりました。元公設三宮市場事業協同組合は平成16年2月に解散となり、現在公設市場時代から残っている店舗は田中商店(青果)、北村漬物店(漬物・みそ)、山下商店(青果)、魚太商店(鮮魚)、そして双葉堂の5店舗です。どの商店も60~70年以上営業している歴史のある店舗。「三宮市場」は三宮センター街の中でも特に昔ながらの雰囲気が漂うレトロな一角となっています。

センタープラザ西館に自習室がOPEN

今年の8月から、センタープラザ西館では、6階貸し会議室の空室を有料の自習室として一般に貸し出しています。1人につき会議用の長テーブル一つを丸ごと使用でき、フリーwi-fiやコピー機も完備しています。料金は午前・午後・夜間の各時間帯毎に300円ととてもリーズナブル。ちょっとした空き時間に気軽に利用でき、とても便利です。やまさんもこの自習室でこの記事を書きましたよ。平日の昼間に利用させていただきましたが、見たところ利用者は社会人の方ばかりで、皆さん参考書などを広げて熱心に勉強や仕事をしていました。お腹が空いたら地下1階に降りれば飲食店がよりどりみどりです。気になった方は三宮での仕事や買い物のついでに行ってみてくださいね。

店舗情報

【双葉堂】

アドレス:神戸市中央区三宮町2-11-1 センタープラザ西館 B1F

営業時間:9:00~18:00

定休日:日曜日

電話:078-331-5857

※ 新型コロナウイルス拡大により営業時間、営業日の変更の可能性があります。

 

【センタープラザ西館自習室】

アドレス:神戸市中央区三宮町2-11-1 センタープラザ西館 6F

平日(月~金) 9:30~21:00(受付は19:00まで)

土・日・祝 9:30~17:30(受付は17:00まで)

料金:9:30~13:00 / 13:00~17:30 / 17:30~21:00

各時間帯毎に300円

  • 会議室の予約状況により貸出できないことがあります。
  • 貸出状況は公式ツイッターでチェック

貸会議室・自習室利用注意事項

 

 

【参考・引用】

こうべ芸文 No.83 神戸芸術文化会議

センタープラザ西館10年のあゆみ 神戸さんセンタープラザ

大阪市中央卸売市場本場HP

センタープラザ西館B1 HP

株式会社神戸サンセンタープラザ HP

神戸市小売市場連合会HP

神戸市公設市場概況 神戸市役所商工課

神戸市小売市場連合会20年史 神戸市小売市場連合会・神戸市経済局

KOBE・三宮物語 三宮復興の軌跡と明日への飛翔 『KOBE・三宮物語』編纂委員会

1918年米騒動 Wikipedia

神戸アーカイブ写真館HP

 

文/チアフルライター やまさん

→ やまさんの過去の記事はこちら

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