沿線お役立ちコラム

「平成の怪物」松坂を超える戦前の大投手、嶋清一を訪ねて@甲子園歴史館

帰ってきた夏の甲子園

神戸在住、チアフルライターのやまさんです。

8月10日、第103回全国高等学校野球選手権大会が開会しました。昨年は戦後初めて春・夏の甲子園のない年になりました。戦前、大会中止は2度あり、1度目は1918年の米騒動、2度目が1941年~45年の太平洋戦争によるもの。戦後においては阪神淡路大震災、東日本大震災に見舞われた年も中断することなく続けられただけに、今回の夏の甲子園開催を喜んでいる方も多いことでしょう。

松坂大輔投手が思い出させた戦前の名投手、嶋清一

ずらりと並んだ高校野球各チームのユニフォーム

 

先月7月6日、現役引退を発表した松坂大輔投手。西武時代は「平成の怪物」と呼ばれ、21世紀初の沢村栄治賞を受賞、メジャーリーグでも活躍したスーパースターです。松坂投手は横浜高校在学中の1988年、第80回夏の甲子園大会準々決勝でPL学園高校を相手に延長17回という長丁場の試合で250球を投げ完投勝利。決勝の京都成章戦では59年ぶり史上2人目となる決勝戦でのノーヒットノーラン、春・夏連覇を達成しました。

 

松坂投手のこの活躍は多くの古参野球ファンにある人物を思い出させることになりました。1939年、第25回夏の甲子園で、初めて高校野球史に全5試合完封・2試合連続ノーヒットノーランの記録を打ち立て、「伝説の大投手」として名を残した嶋清一投手です。

嶋投手の足跡を訪ねて甲子園歴史館へ

嶋清一投手は、テレビアニメ「巨人の星」にも登場しています。125話「ズックのボール」に主人公星飛雄馬の父で当時巨人軍の三塁手だった星一徹が、戦場で嶋清一と出会うというものです。国民的アニメ「巨人の星」にフィーチャーされるほどのすごい投手とは?嶋投手に興味を持ったやまさん、早速「甲子園歴史館」を訪ねてみました。甲子園歴史館は甲子園球場の中に併設されており、名前のとおり甲子園球場の歴史を紹介しているところです。

戦前の野球ブームと甲子園球場建設

初代優勝旗 春の甲子園の優勝旗は「紫紺旗」、夏の甲子園の優勝旗は「大深紅旗」と呼ばれる

 

日本に野球を紹介したのはホーレス・ウィルソンというアメリカ人の英語教師です。1871年に来日し、東京開成学校予科(現・東京大学)の生徒たちに教えた野球が「打球おにごっこ」という名前で全国に広まりました。初めのうち旧制高校(現在の大学)の間で盛んだった野球は、旧制中学(現在の高校、5年制で13~17歳が在学)へも飛び火し、1915年8月に大阪の豊中球場で第1回全国中等学校優勝野球大会が開催されました。

 

第3回からは兵庫県の鳴尾球場で開かれましたが、野球ブームにより観客が収容しきれなくなったため、阪神電鉄の甲子園開発構想の一環として球場建設が企画されます。球場は1924年3月11日の起工式からわずか4ヶ月半という急ピッチで完成し甲子園大運動場と命名、同年8月13日には第10回全国中等学校優勝野球大会が開催されました。これ以後、高校野球の全国大会は甲子園球場で開催されるようになります。

 

1920年には早稲田大学野球部OBらにより日本初のプロ野球チームが誕生、1936年に初のプロ野球リーグ「日本職業野球連盟」が設立されます。因みに、甲子園を本拠地とする阪神タイガースの前身、大阪タイガースは1935年に誕生しました。社会人野球も盛んで、1927年には企業チームによる都市対抗野球大会が明治神宮野球場で開かれました。

伝説の大投手、嶋清一とは

嶋清一氏は、旧制和歌山県立海草中学(現・向陽高校)野球部の左腕投手。春2回、夏4回甲子園大会に出場し、1939年の第25回全国中等学校優勝野球大会では全5試合を被安打8(注)、奪三振57の成績で完封。準決勝、決勝では2試合連続ノーヒットノーランという、大会史上初の偉業を達成。海草中学を初優勝に導き「天上天下唯我独尊的の偉業」と称されました。足を高く上げ、流れるようなフォームで強靭な左腕から投じられる剛速球と垂直に落ちるかのような「懸河のドロップ」は、当時の中学野球のレベルをはるかに超えるものだったと言われています。

 

注:被安打 投手がヒットを打たれること

嘉義中とも対戦した海草中学

2020年に台湾総統蔡英文から贈られたサイン入りボール。「台湾・日本、一緒に頑張りましょう」と書いてある

 

海草中学は第25回夏の甲子園の1回戦で嘉義農林学校と対戦、5−0で勝ち抜きました。映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」で一躍知られるようになった嘉義中は、日本人、台湾人、それに高砂族と呼ばれた原住民族の混成チームで、純朴かつ野性的なプレーが人気を集めたそうです。嶋自身は嘉義中戦を「今度の大会を通じて5回行った試合のうちでは、なんといってもいちばん嘉義中戦に全力を傾倒しました。遠い台湾から来たチームとは思えないほど粘りもあるし、それに洗練されて規則正しいその行動には敵ながらあっぱれであったと敬服しています」と振り返っています。嘉義中は1931年の夏の甲子園で準優勝しており、強豪校の一つでした。戦前甲子園大会には、はるばる満州、朝鮮、台湾の学校からも球児たちが試合に参加しました。

 

<第25回夏の甲子園 海草中戦績>

1回戦       海草中 5-0 嘉義中

2回戦       海草中 5-0 京都商

準々決勝    海草中 3-0 米子中

準決勝       海草中 8-0 島田商

(無安打無得点試合)

決  勝        海草中 5-0 下関商

(無安打無得点試合)

戦争により中断された甲子園大会

「国民精神総動員」の懸垂幕

 

高まる野球熱とは裏腹に、1930年代に入ると日本に軍靴の音が忍び寄ります。1931年に満州事変が勃発し、1937年には日中戦争へと拡大、さらに1941年には日本がアメリカに宣戦布告、太平洋戦争へと発展します。1938年には物資の不足から国家総動員法が施行され、全ての人的・物的資源が政府により統制されるようになりました。徴兵や応召(注)により20〜30代の若者たちが次々と戦場へ送られていきました。甲子園大会に出場した元高校球児や大学野球選手、プロ野球選手も例外ではありませんでした。1941年春の甲子園を最後についに大会は中止に追い込まれ、甲子園球場では金属供出のため大鉄傘(スタンドの屋根)が取り壊され、グラウンドは食糧難から芋畑へと変わりました。

 

注:徴兵とは満20歳になった全ての男性に義務付けられた徴兵検査により甲種合格した者が務める2年間の兵役。応召とは現役期間を終えた予備役兵が有事に招集されること。戦争末期には兵力不足により学生や体の弱い者も徴兵され、戦場へと送られた。

ぼくもいくさに征くのだけれど

バックスクリーンウォークにある「まんがと甲子園」コーナー

 

街はいくさがたりであふれ

どこへいっても征くはなし 勝ったはなし

三ヶ月もたてばぼくも征くのだけれど

だけど こうしてぼんやりしている

 

ぼくがいくさに征ったなら

一体ぼくはなにをするだろう てがらたてるかな

 

だれもかれもおとこならみんな征く

ぼくも征くのだけれど 征くのだけれど

 

なんにもできず

蝶をとったり 子供とあそんだり

うっかりしていて戦死するかしら

 

そんなまぬけなぼくなので

どうか人なみにいくさができますよう

成田山に願かけた

 

これは、1945年にフィリピンで戦死した竹内浩三という人が兵舎の中で書いた「ぼくもいくさに征くのだけれど」という詩です。無名の若者でしたが、竹内氏の姉、友人らの尽力により1956年に出版された「愚の旗 - 竹内浩三作品集」により人々に知られるようになりました。竹内氏の姉の話によると、当時若者が兵隊になって戦うのは当然という空気があったそうです。ですが、この詩を読むと、彼等の本音は違ったのではないかと思えてきます。嶋投手が海草中在学中、野球部の監督を努めた長谷川信義氏は出征先の中国戦線から葉書を何通も送り、野球部の指導を続けたそうです。野球を愛する人々は戦場にいても常に野球のことが頭から離れなかったでしょうし、それはその他の若者の多くについても同じだったと思われます。

「巨人の星」第125話で、嶋が撃たれる直前、飛んできた蝶に手を伸ばそうとして米軍の機関銃に撃たれる兵士が登場します。この回のシナリオを書いた方はひょっとしたら竹内氏のことを知っていたかもしれませんね。竹内氏は漫画好きの少年で、映画監督を目指していたそうです。

戦場に散った野球人、生還した野球人

「ブンと生徒たちの泣き笑い高校野球 強うなるんじゃ!」 蔦文也vs山際淳司対談集

 

甲子園大会に出場し、戦場へと向かった元球児は嶋投手の他にも数多くいます。その中で特に有名な野球人を紹介したいと思います。

 

沢村栄治:日本プロ野球史上に残る伝説の選手。1933年、1934年の甲子園に京都商業学校(現・京都先端科学大学附属高校)から出場しました。沢村投手はNPB史上初の最多勝利を獲得し、NPB史上初の最高殊勲選手(MVP)も受賞。史上初のノーヒットノーラン達成など、さまざまな記録を打ち立てました。1944年、2度目の応召でフィリピンに向かっていた軍隊輸送船が米海軍潜水艦シーデビルにより撃沈され、27歳で戦死します。

 

川上哲治:「打撃の神様」の異名を取り、日本プロ野球史上初の2000安打を達成した巨人軍の「赤バット」。川上氏は1934年、1937年夏の甲子園に熊本県立工業学校(現・熊本工業高校)から出場し準優勝します。その時甲子園の土をユニフォームのポケットに入れて持ち帰り、母校のグラウンドに撒きました。これは甲子園の土の持ち帰り第1号とされています。川上氏は王選手・長嶋選手がいた黄金期の巨人軍監督としても活躍し、プロ野球史上唯一の「V9」を達成しました。

 

蔦文也:「さわやかイレブン」「やまびこ打線」として知られる徳島県立池田高校野球部を40年間指導、春・夏の甲子園において、優勝3回、準優勝2回の実績をあげた「攻めダルマ」。蔦氏は1939年、1940年の甲子園に徳島県立商業学校から出場、1943年に徴兵され、特攻隊員に選抜されたものの運良く戦死を免れました。蔦監督の教え子の中からは、多くのプロ野球選手や高校野球の監督が生まれました。「ブンと生徒たちの泣き笑い高校野球 - 強うなるんじゃ!」という対談本には、蔦監督の野球と野球部生徒たちに対する深い思いが溢れています。

戦没野球人モニュメント・鎮魂の碑

春・夏の高校野球を象徴する記念碑、野球塔

 

「巨人の星」第125話の終盤、アナウンサーが戦争で亡くなった甲子園のヒーローたちの名前を次々と紹介します。調べてみると、彼等は戦没野球人モニュメントに名前の刻まれている人々でした。戦没野球人モニュメント及び鎮魂の碑は、東京ドームの中にある野球殿堂博物館の傍に建立されており、第二次世界大戦で戦死した野球選手を慰霊するために制作されました。現在、嶋清一氏を含む中等学校野球・大学野球・社会人野球の選手167名が戦没野球人モニュメントに、戦没したプロ野球選手76名が鎮魂の碑に刻まれています。

戦争がなかったら新聞記者になりたかったんや

戦後の高校野球史に残る名シーン

 

嶋清一氏は海草中学を卒業後、明治大学で野球を続けました。1943年に大学を繰り上げ卒業し海軍・大竹兵団に入営。その直前に周囲の反対を押し切って海草中学時代から嶋のファンだった女性と結婚します。配属先が地元和歌山になったことで3ヶ月という短い間ではあったものの週末を夫婦水入らずで過ごしました。嶋はこの僅かな期間を人生で最も充実していたと感じていたようで、海草中野球部の後輩に「結婚はええぞ。おまえも早よ嫁さんもらえ」とよく言っていたそうです。しかしそれも束の間、第84号海防艦に乗艦が決まり、1945年3月29日、シンガポールから門司に向かう輸送船団ヒ88Jの護衛任務中、米海軍潜水艦ハンマーヘッドの雷撃によりベトナム沖にて戦死します。24歳という若さでした。

 

学生の頃から達筆で文章を書くことを好んだ嶋氏は、生前海草中野球部のチームメイトで親友の古角俊郎氏に「俊さん、俺なぁ、戦争がなかったら・・・新聞記者になりたかったんや」と漏らしていたそうです。古角氏は出征から生還した後、和歌山県立新宮高等学校の野球部監督に就任し、1950~55年にかけて同校ナインを甲子園出場へと導きました。嶋投手は2008年に野球殿堂入りし、古角氏が亡き嶋投手の代わりに表彰台に立ちました。

白球飛び交うところに平和あり

嶋投手の第25回夏の甲子園1回戦完封記念ボール

 

「白球飛び交うところに平和あり」これは日本高校野球連盟第3代会長、佐伯達夫の言葉です。佐伯氏は戦時中、中断された甲子園大会の復活を求め、戦後はいちはやい大会の再開をGHQや朝日新聞社に訴え続けました。そして1946年8月、進駐軍に接収されていた甲子園の代わりに阪急電鉄の西宮球場で全国中等野球大会が再開され、海草中学から優勝旗が返還されました。高校野球大会の復活はそのまま日本に平和が戻ってきたことの象徴でもありました。

 

あと3年で創立100周年を迎える甲子園球場。歴史遺産的建造物でありながら今なお現役で、毎年プロ・学生を問わず数多くの選手達の檜舞台として、また数多くの野球ファンが足を運ぶ野球の聖地としてあり続けています。

高校野球をネットで観戦!

バックスクリーンビュー:スコアボードの真下から球場を一望できる

 

今年の夏の甲子園は8月9日開幕ですが、日本高等学校野球連盟の発表によると、今回はコロナ禍のため一般観客向けチケットの販売が行われないそうです。甲子園で直接観戦できないのは残念ですが、今はテレビやラジオだけでなく、ネットでも観戦できるようです(バーチャル高校野球)。外出先でも気軽にチェックできるので便利ですね。

甲子園歴史館休館のお知らせ

阪神電車発行の甲子園大会出場者用全線1日乗車券(水色)。上は阪急電車のもの。

 

甲子園歴史館がリニューアルのため2021年9月6日〜2022年3月頃まで休館します。再オープンが楽しみですね。

歴史館ではリニューアル前の締めくくりに8月3日〜9月5日まで「甲子園歴史館の歩みと振り返る選手権大会」展が開かれます。甲子園大会期間中(開会式当日~決勝戦当日)、高校生は学生証提示で入館料が300円になるとのことですので、この機会にお出かけしてみては?

 

 

甲子園歴史館

アクセス:阪神甲子園駅下車すぐ

入館料:大人600円/4歳〜中学生300円(各種割引有り)

営業時間:10:00~18:00

※入館は閉館時間の30分前まで

※高校野球開催時など催し物により変動

休館日:月曜日(試合開催日、祝日を除く)

HP:https://koshien-rekishikan.hanshin.co.jp

注:2021年9/6~2022年3月頃までリニューアルのため休館

 

【参考】

嶋清一 戦果に散った伝説の左腕 山本暢俊著

-ブンと生徒たちの泣き笑い高校野球- 強うなるんじゃ! 蔦文也vs山際淳司対談集

ぼくもいくさに征くのだけれど -竹内浩三の詩と死- 稲泉連

野球殿堂博物館HP

巨人の星 第125話 ズックのボール dアニメストア ニコニコ動画支店

バーチャル高校野球 甲子園の戦績

阪神甲子園球場 甲子園球場史

 

文/チアフルライター やまさん

→ やまさんの過去の記事はこちら

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