深江を守る神社の敷地内にあるまちの歴史博物館
チアフルライターのやまさんです。
阪神深江駅のすぐそば、深江の氏神様である大日霊女(おおひるめ)神社の敷地内に佇む神戸深江生活史料館。この場所が本庄村と呼ばれていた頃から営々と営まれてきた人々の暮らしが収められています。地元の人々が自らの手でコツコツと作り上げた史料館は私達が暮らす地域のあり方やまちづくりについて改めて考えさせてくれる場所です。
今回、史料館のスタッフの方に案内をしていただき詳しいお話を伺うことができました。
市町村大合併の間で ―長年の胸のつかえだった本庄村史誌の編纂から生まれた史料館
写真:28年の歳月をかけて完成した「本庄村史 地理・民俗編」「本庄村史 歴史編」。当館で購入可能。やまさんも購入しましたが、図表がたくさん掲載されており、とてもわかりやすく面白いです。木彫りの人形がついたブックエンドは深江文化村の住宅で使われていたものだそう。ミレーの「晩鐘」から題材を取ったようですね。地方史とミレー、とても素敵な組み合わせだと思いました。
史料館のある本庄村は昭和25年、神戸市東灘区となりました。これと同時期に東灘区に合併されることとなった御影町、住吉村、魚崎村、本山村には既に町村史誌がありましたが、本庄村には戦前の昭和17年に史誌編纂の動きがあったものの、刊行までには至らぬまま東灘区の一部となってしまったことが、本庄村民にとって長年「胸のつかえ」となっていました。
転機が訪れたのは昭和50年代に起こった地方史ブーム。昭和55年には地元の深江財産区が発起人となり、地元住民と連携して編纂活動を再開しました。その間、住民から寄せられた多数の資料の収集保管所として財産区で昭和56年鉄筋コンクリート2階建ての「神戸・深江会館生活文化史料室」をオープンすることに。これがさらに拡張され、現在の「神戸深江生活文化史料館」となりました。
「本庄村史」編纂にあたり、対象となった地域は明治22年に誕生した本庄村を構成する深江・西青木・青木ですが、本庄村の歴史的な成り立ちを鑑み、江戸時代以前の本庄となる森・田辺・小路・北畑・中野(東灘区)、三条、津知(芦屋市)のことも適宜含めることにしたそうです。「本庄村史」は平成16年に地理・民俗編が、歴史編が平成20年に刊行され、28年もの歳月をかけて本庄村の人々の「胸のつかえ」がやっと取れることに。
史料館に収められた資料には地元で発掘された土器から始まり、村で使われていた漁労具、農具、民具などがぎっしりと並んでおり、これらの資料を整理するのは大変な作業だったであろうこと、ひいては本庄村史編纂に取り組んだ関係者たちの情熱が生半可なものではないことがわかります。
財産区とは
深江生活文化史料館を創設したのは深江財産区。財産区とは、山林、ため池、墓地などの地域の共有財産を維持・管理する特別地方公共団体のことで、明治と昭和の2度にわたって実施された市町村大合併により誕生したものです。この大合併により、江戸時代から続いていた自治体の入会地を国有地や公有地として取り上げられることに多くの住民が反発。そこで国は財産区制度を設けて住民の自主管理を認めることにしました。神戸市の財産区は全国でも2番めに多い159箇所。現在神戸市に組み込まれている町村の中には合併に難色を示した地域もいくつかあったそうです。史料館にも合併に関する記事が展示されており、神戸市合併派と芦屋市合併派に分かれた対立があった様子が伺えます。
古来、自治体は氏神信仰により地域の寺社を氏神様として祀る氏子地域として成り立っていました。現代でも氏神信仰はだんじりなど地域のお祭りとして維持されています。財産区という聞き慣れない言葉を調べることは、やまさんにとって自治体の歴史やまちづくりについてより深く考えるきっかけになりました。
神戸深江生活文化史料館には古代から現代にわたる様々な史料が収められていますが、今回はその中からやまさんが独断で選んだ4つのお話をご紹介したいと思います。
幕末から深江で種痘を広め、赤ひげ先生として地域の医療活動を行った深山家
写真:深山家医事史料 代々お医者さんを営んでいる深山さんが自宅の建て替えを機に、自宅に古くから保管されていた民具や医療器具、資料などを寄贈しました。これらの資料が収められていた深山家の納戸には約100年間にわたる歴史的な文物が1cmを超える埃を被っていたそうです。
天然痘は戦国時代あたりから流行が始まり、当時は5年に一度、江戸時代には30年に一度のペースで流行し、子供がかならずかかる病気として猛威をふるいました。江戸時代、麻疹(はしか)・水ぼうそうと並んで天然痘は「お役三病」と呼ばれ、特に天然痘の死亡率は25〜50%と高かったため、これらを無事にやり過ごすことを人々は願ったそうです。
江戸末期に活躍した医師・蘭学者緒方洪庵。大阪で開かれた蘭学塾である適塾が有名ですが、緒方洪庵は天然痘の治療に尽力したことでも知られています。洪庵は嘉永2年(1849年)長崎・出島の医師オットー・モーニッケを通じて京都に伝わっていた痘苗を元に現在の大阪市中央区修道町に「除痘館」を開き、牛痘種痘法によるワクチン接種と種痘を広めるための分苗所普及に努めました。しかし種痘は体に悪いという悪説が流布したため、種痘の普及に大変苦労したそうです。洪庵の粘り強い活動の結果、慶応3年(1867年)、除痘館は官許を得て公館となり、3〜5人の組合を定め、各町村ごとに種痘ワクチン接種を担当させることになりました。
史料館の史料の大半は深山さんという江戸時代から代々お医者さんをやっている家から寄贈されました。深山家は元禄12年(1699年)徳川綱吉の頃から大阪で医業を始め、文化3年(1806年)に深江に移住しました。幕末の当主深山玄石氏は緒方洪庵と並び「学の緒方、術の原」と賞された流行医、原老柳の門下生となりました。深山家には「姓名録」と題した種痘カルテが残されており、それによると、安政6年(1859年)から明治7年(1877年)までの間に延べ1134人分の種痘接種記録があるそうです。さらに慶応3年には大阪種痘館から分苗の免許状が交付されています。これらの史料から、深山家が緒方洪庵の協力者として種痘の普及に努めたことがわかります。日本における最後の天然痘患者の発生は1974年。1980年にはWHO(世界保健機関)により天然痘の根絶宣言が出されました。深山家をはじめ、世界中の市井のお医者さんたちの努力がこうした形で実を結んだというのは、本当にすごいことだと思います。
種痘によるワクチン接種の普及活動以外にも、深山家は貧窮者からはお金を取らずに診療をしたそうです。まさに深江の赤ひげ先生ですね。深山さんは現在も深江の町のお医者さんとして地元での医療活動を続けています。
写真:慶応3年(1867年)、大阪除痘館から深山玄石氏へ交付された分苗の免許状
写真:深山家では貧しい人々に対してはお金をもらわずに診療を行ったそうです。本庄村民だけでなく、西宮や兵庫からも患者さんがやってきたようです。
明治・昭和時代、芦屋に「打出焼」という窯元があった
明治39年(1906年)、打出に広大な敷地を持っていた齋藤幾太という実業家が打出丘陵の良質の粘土に着目し、琴浦焼の創業者和田九十郎正隆の協力のもと、武庫郡精道村打出(現在の芦屋市楠町)の別荘に各地の陶工を招き、お庭焼として打出焼を創窯します。その陶工のひとりであった阪口庄蔵(号:砂山)氏が明治43年(1910年)に独立し阪神打出駅近くの春日町で開窯、大正3年(1914年)には合資会社打出焼陶器工場を設立します。工場では生活雑器や茶器、行事の記念品、結婚式の引出物が多く作られたようです。変わったものとしては、西宮市の海清寺の住職南天棒和尚が大正6年(1917年)打出焼の棺桶に入り生前葬を行ったそうです。ちなみに南天棒(中原鄧州)和尚とは南天の竹篦(しっぺい:座禅で使用する警策)を携え、全国の禅道場を巡っては修行僧を容赦なく殴打した明治時代屈指の豪僧として知られており、山岡鉄舟、乃木希典、児玉源太郎などが影響を受けたそうです。
大正時代まで、打出丘陵は粘土と石材の産地として西宮、神戸、新在家方面にかなりの量が運ばれていましたが、それも昭和に入ると枯渇し、工場ではよそから粘土を仕入れて作陶を続けました。
昭和41年(1966年)、史料館の研究員である藤川さんは友人たちとともに窯元を訪問し、二代目砂山である息子の淳氏と対面しました。しかし、この時期すでに作陶は行われておらず、昭和48年(1978年)に春日町の土地区画整理事業により窯が取り壊され、昭和53年(1978年)に二代目が亡くなったことで約70年に渡る打出焼の歴史は幕を閉じました。
史料館の研究員、藤川さんは長年独自に打出焼の調査研究を行っており、ご自宅には200点を超える打出焼があったそうです(最近それらの蒐集品を芦屋市に寄贈されたとのこと)。インターネットで検索してみると、打出焼はネットオークションでもけっこう出品されており、可愛い器の写真をたくさん見ることができます。まちの骨董屋さんでも見かけることがあり、運が良ければ安く手に入れることも可能なようです。器の裏に「打出」あるいは「うちで」と刻銘されているのが打出焼だそうです。
日本で洋裁教育の基礎を作り洋裁ブームを牽引した田中千代
写真:芦屋市大原町にあった田中千代服飾専門学校の1階教材売り場で使用されていたレジスター。2016年度下半期放送のNHK連続テレビ小説「べっぴんさん」で小道具として登場しました。「べっぴんさん」のヒロインである坂東すみれのモデルは神戸のアパレルメーカー「ファミリア」の創業者の一人、坂野惇子氏です。
戦後のアプレ文化が生んだ洋裁ブーム
戦前まで日本の女性の間では和装が主流でした。戦時中、女性の間では国防婦人会の訓練などでより活動性の高い服を必要としたことから各家庭で着物をモンペに仕立て直し、これが洋装が一般化する最初のきっかけとなります。戦後、あらゆる物資が不足するなか、女性たちは家にある手持ちの着物やモンペをほどいて「更生服」と呼ばれる洋服へと仕立て直しました。もちろん洋装は戦前から存在しました。明治期の文明開化により、男性がスーツを着るようになり、学校の制服、子供服へと広がり、大正時代にはモボ・モガ(注)が都市部のファッションリーダーとなりました。そうした流れとはまた別に、戦後の女性たちを大挙して洋装へと向かわせたのは戦前・戦時中の様々な抑圧からの開放や進駐軍がもたらしたアメリカ文化への憧れでもあったようです。第二次世界大戦直後のこの時期は、軍国主義体制の崩壊とともに「アプレ・ゲール」と呼ばれ、戦前の価値観や権威が崩壊した日本で既存の道徳観に縛られない無軌道な若者を数多く生み出しました。その中から「アプレ文化」と呼ばれる潮流が起こり、そのひとつが日本における服飾革命とも呼べる洋裁ブームとなりました。
(注)モボ・モガ:モダンボーイ・モダンガール。大正時代末期から昭和初期にかけて現れた、西洋文化に影響を受けた若者たちのこと。
洋裁を学ぶにあたって、大正時代・昭和初期からヨーロッパをお手本とした洋裁学校はすでに日本にもいくつか存在しました。それらの学校が戦後活動を再開すると、学校の予想を大きく上回る入学希望者が押しかけたそうです。その後1950〜60年代に日本で洋裁学校が大いに普及しました。伊東茂平のイトウ洋裁研究所、並木伊三郎・遠藤政次郎の文化服装学院、杉野芳子のドレスメーカー女学院、上田安子の上田安子服飾研究所(現上田安子服飾専門学校)、田中千代の田中千代洋裁研究所(後の田中千代学園、現渋谷ファッション&アート専門学校)などがそれです。戦後外貨獲得のため繊維業が飛躍的に伸びたこと、また国内生産による家庭用ミシンの普及も洋裁ブームの後押しとなりました。
阪神間モダニズム時代に活躍した洋裁教育者、田中千代
田中千代服飾専門学校の創立者である田中千代氏は1906年(明治39年)東京で外交官の家に生まれました。結婚後学者である夫の留学に従いパリへ。その後単独スイスに渡りバウハウスの初代メンバーヨハネス・イッテンから欧米の文化・服飾を学びます。帰国後は兵庫県武庫郡住吉村(現在の神戸市東灘区住吉)の自宅で皐月会という小さな洋裁教室を開く傍ら、阪急百貨店やカネボウで服飾デザイナーとして働きました。1937年に兵庫県武庫郡本山村(現在の東灘区岡本)に田中千代洋裁研究所を開設、1947年には芦屋市大原町に移転、翌年には田中千代学園と名前を改めます。田中千代は近代洋裁教育者として意欲的に働く一方、ニューヨーク大学へ留学し1951年には日本人デザイナーとして初のファッションショーを海外で開きます。また、服飾辞典の編纂や皇室で香淳皇后や美智子皇太子妃などの衣装製作に携わりました。現在、田中千代学園は東京に移転し学校名も渋谷ファッション&アート専門学校となっています。
田中千代服飾専門学校並びに田中千代学園には多くの生徒が通ったため、JR芦屋駅から学校への道は「田中千代通り」と呼ばれるほどだったとか。更に同校は谷崎潤一郎の小説「細雪」にも登場しているそうです。
ロシアからの亡命音楽家メッテルとの国際交流の場となった深江文化村
深江といえば阪神間モダニズムを代表する深江文化村が最も有名です。アメリカの建築家ウィリアム・メリル・ヴォーリズ(明治から昭和初期にかけて日本で活躍した西洋建築家。関西学院大学校舎など主に関西圏で教会、学校、個人住宅などを数多く手掛けた)の弟子吉村清太郎の提案により、大正の終わりから昭和初期にかけて神楽町(現在の深江南町)に13戸の洋風住宅が建てられ、これが後に深江文化村あるいは芦屋文化村と呼ばれる一角になりました。このコミュニティーにはロシア革命を逃れてやってきた白系ロシア人やユダヤ系の人々が多く暮らしましたが、その中にクラシック音楽の指揮者エマヌエル・メッテルという音楽家がいました。メッテルは来日後大阪放送管弦楽団や現在の京大交響楽団などの指揮を長年務め、日本における西洋音楽家の父として朝比奈隆や服部良一など著名な指揮者を育てました。また、メッテルの妻エレナ・オソフスカヤは亡命前ロシアで活躍したプリマ・バレリーナで、彼女もまた宝塚音楽歌劇学校で後進の指導にあたりました。
当時、深江文化村の近くには深江文化ハウスと呼ばれた宿泊施設兼洋風レストランがありました。夏になるとメッテルとの交流を求め、ショパンの再来と言われたウクライナ出身のピアニスト レオ・シロタ、28歳で夭折した天才ヴァイオリニスト・指揮者の貴志康一、旧帝政ロシア時代にニコライ二世の宮廷楽団長を務めたアレクサンドル・ヤコビッチ・モギレフスキーなど、様々な文化人や音楽を志す日本人が滞在しました。また洋画家の小磯良平も深江文化村に顔を出していたそうです。このコニュニティーが「文化村」と呼ばれ始めた経緯ははっきりしませんが、このように数多くの文化人が住み、交流した場所であったことが名前の由来になっているようです。
深江文化村のすぐ近くに神戸近代建築100選のひとつである太田酒造貴賓館という建物があります。もとは元神戸市長小寺謙吉氏の別邸だったそうで、設計はヴォーリズ。非公開の場所ですが、事前に電話で申し込めば見学が可能です。阪神間モダニズム建築を見てみたいという方、ヴォーリズファンには一見の価値ありです。
圧巻の史料館だより ―めくるめく本庄村クロニクル
史料館が年に一度発行している「生活文化史<史料館だより>」には旧本庄村に関する様々なトリビアが紹介されています。例えば深江に温泉のある保養施設があったこと、魚崎でそうめんが作られており、魚崎が関西におけるそうめん発祥の地であったことなどなど。
やまさんが個人的にとても懐かしかったのは「ロバのパン屋」。昭和30年代から50年代くらいまで全国のあちこちで楽しげなCMソングを流しながら、ロバならぬポニーに牽かせた馬車で移動販売をするパン屋さんがいたのです。やまさんは子供の頃1度だけ実物を見たことがあります。今でもこのCMソングを歌えますし、なんなら小学生の頃この歌を人前で歌って歌詞を間違え、クラスメイトに笑われたことまで覚えています。史料館だよりは史料館で無料でいただけるので是非手にとってみてください。
災い転じて ―児童館・図書館の出張所として機能を拡張
写真:大正時代のままごとセット。保存状態がとても良いです。
今から3年前、震災復興により基本財産を減らし、財産区管理会の維持が困難になったことから、史料館は閉館の危機に陥ったそうです。これを機に神戸市と業務提携することになり2017年、3階を児童館にリニューアル、また神戸市立図書館の出張機関として図書の受け取り・返却所としても活用されることに。こうして神戸深江生活文化史料館は、市と財産区が協力して地域の歴史的遺産を継承しつつ、地域住民の利便性にも答えられる複合的な施設へとバージョンアップを遂げました。この史料館がいつまでもまちかどの歴史文化発信基地であり続けてほしいと思うやまさんでした。
【情報】
■深江生活文化史料館
開館日:土曜日・日曜日
開館時間:10:00〜17:00(入館は16:30まで)
アクセス:阪神深江駅下車すぐ 大日霊女神社横
入館料:無料
HP:http://fukae-museum.la.coocan.jp/index.html
■太田酒造
HP:http://www.ohta-shuzou.co.jp/about.html#chiyoda
【参考】
生活文化史<資料館だより>
本庄村史 ―神戸市東灘区深江・青木・西青木のあゆみー 地理編・民俗編
Wikiwand 本庄(神戸市)
旧村の名残としての財産区について 市民まちづくりブックレットNo.1 神戸東灘まちづくり文化のルーツ
洋裁文化の構造―戦後期日本のファッションと、その場・行為者・メディア(1) 井上雅人
戦後の洋裁学校の興隆・衰退に関わる社会的背景の要因分析 齋藤佳子 日本家政学会誌 Vol.67
芦屋365ブログ 田中千代を知ってますか
ブログ 本山北町全部募集中!by本山北町まちづくり協議会 「阪神間モダニズム 〜深江文化村」考
文/チアフルライター やまさん