沿線お役立ちコラム

【前編】阪神高速道路全線復旧への苦闘623日@深江震災資料保管庫

震災の爪痕を語り継ぐ貴重な土木遺産

チアフルライターのやまさんです。

阪神淡路大震災では神戸市東灘区の深江本町で635mにわたり阪神高速3号神戸線が倒壊しました。

深江浜にある「震災資料保管庫」

ここには被災した高速道路の一部が展示され、当時の地震の凄まじさを物語る貴重な語り部となっています。

 

震災資料保管庫は深江駅から平日なら市営バスで15分、徒歩30分の場所にあります。やまさんは今年1月から開始された無料送迎サービスをお願いしました。運転していただいた松原さんは神戸で被災されたそうです。

 

崩落した高速道路の端から数十センチ身を乗り出し、間一髪で落下を免れた観光バスの映像を覚えているでしょうか?神戸市東灘区を走る阪神高速3号神戸線は、震災により東灘区深江本町の橋梁635mが倒壊、4箇所で落橋、5号湾岸線も1箇所が落橋するなど、甚大な被害を受けました。当時高速道路だけでなく、一般道、鉄道、港湾といったあらゆる移動・輸送ルートが寸断し、阪神間はほぼ完全な交通マヒ状態に陥りました。

 

震災により被害を受けた高速道路の一部を切り出し、保管展示している「震災資料保管庫」は深江浜の一角にあります。今回やまさんはすっかり復興を遂げて久しい神戸の町の片隅に残されている、大変貴重な震災の遺産を見学してきました。

震災資料保管庫はなぜ作られたのか 阪神高速道路技術センタースタッフの思い

写真:「収められる資料が大変な重量になることから、この保管庫を建てるには地盤のしっかりした場所を選ぶ必要がありました。5号湾岸線の真下なら高架を支える基礎工事の際に杭を深く打ち込んであるので大丈夫だろうということで、ここに決まりました」(震災資料保管庫の語り部さん)

 

展示資料のガイドをしてくださったのは、現在、震災資料保管庫の語り部をされている方です。

 

震災発生までの語り部さんの役職は大阪第一建設部調査課長でした。震災当時神戸市の須磨区に住んでおり、大阪の会社に通勤していたそうです。震災当日、BCP(注)に従い最寄りの神戸管理部へと応援に駆けつけ、そのまま復旧工事に従事したそうです。道中、自宅から東へと移動するにつれ、被害状況がどんどん悪化しているのがわかりました。語り部さんが担当したのは武庫川から深江の3号神戸線橋梁復旧工事。肩書も阪神高速道路公団神戸線復旧建設部第三復旧工事事務所長へと変わりました。それから翌年9月30日の開通まで、その後も関係業務に携わり、トータルで2年半復旧工事業務に従事しました。

 

「震災当時、3号神戸線の倒壊について道路公団の設計・施工にミスがあったためではないか、それを隠すために壊れた橋脚の撤去作業を急いでいるのでは?などとマスコミからいわれのない非難を受け、徹底的に叩かれていたのです。私達公団の工事関係者はその非難に対して忸怩たる思いがありました。3号神戸線は設計者・施工者である私たちにとって自分の子供のようなものです。あの震災で橋脚のどこが、どのような影響を被り倒壊したのか、その事実と実際を後世の人々に見てもらいたい、という思いで当時の公団関係者たちが被害を受けた橋脚の一部を残す運動を起こしたのです」

 

いただいたパンフレットの表紙には「地震で失ったもの、伝えるべきもの、そして活かさなければならないもの」という言葉があります。語り部さんをはじめ当時阪神高速の復旧作業にあたった技術者たちの思いが、この言葉に込められているような気がします。

 

(注)BCP=Business Continuity Plan:事業継続計画とも。企業が災害、システム障害、テロなどの緊急事態に遭遇した場合に損害を最小限にとどめつつ、中核事業の継続、早期復旧を可能とするために、平時の活動や緊急時における事業継続の方法、手段などを決めておく計画のこと。

400年の時を経て再来した直下型地震

写真:左 「鋼製橋脚(円形)の局部座屈・破断われ」 座屈した補鋼材が提灯のように縮んでいます。

 

1995年に起こった阪神・淡路大震災は一般に直下型地震と呼ばれる内陸地殻内地震により引き起こされました。地震にはプレート間地震、内陸地殻内地震、海洋プレート内地震、火山性地震があります。阪神淡路大震災が起こるまで、地震と言えばプレート間地震ばかりが取り沙汰されており、関西には地震は起こらないだろうと言われていました。ところがこの地震により、今から400年前、豊臣秀吉の時代に起きた慶長伏見大地震と原因を同じくする野島断層という隠れ断層があったことがわかりました。

 

慶長伏見大地震では、兵庫、大阪、京都、和歌山の広範囲に渡って被害があり、京都市伏見区にあった伏見城では、天守閣の半分が崩れ落ち、二ノ丸の崩落により約300名が亡くなったほか、周辺の町家では1000人以上が犠牲になったそうです。この地震では阪神大震災の10倍のエネルギーが放出されたものと見られています。

 

阪神淡路大震災の震源地は淡路島北淡町沖北緯34度34.9分、東経135度2.1分、深さ16km。気象庁の震度階級で最大の震度7(激震)を記録し、死者6,434名、行方不明者3名、負傷者43,792名。当時戦後最大の犠牲者数となりました。東神戸大橋で観測された地震計によると、最大加速度443.36ガルを記録したそうです。(ガル:地震の揺れの強さを表す加速度の単位。1ガルは毎秒1cmの割合で速度が増すことを示します)

同業者たちからの支援

写真:「RC橋脚主鉄筋段落とし位置での曲げせん断破壊」 長田区にあった橋脚の一分を縦に切り、横倒しにしたもの。これらの資料として展示されている橋梁・橋脚の切り出しは中にダイヤモンドの入ったワイヤーが使われたそうです。

 

阪神淡路大震災が起きた1995年はボランティア元年とも呼ばれ、内閣府の防災情報のページによると、全国各地から延べ180万人ものボランティアが被災地に駆けつけました。阪神高速道路の復旧作業においても、日本道路公団、首都高速道路公団、本州四国連絡橋公団といった各地の同業者が「うちのを使ってくれ」と資材を提供してくれたそうです。(震災当時、阪神高速道路株式会社は阪神高速道路公団という特殊法人でした。日本国内の有料道路の建設・管理等を行っていた道路関係四公団は、2005年に民営化され、公団時代と同じ業務を継承しています)

 

また、震災により阪神間の岸壁が被災したことにより、船舶の入出港が事実上不可能となったため、空いていた港湾作業用の機材、例えばコンテナリフターなどを貸与してもらい、橋脚の復旧活動に利用することができたそうです。

困難を乗り越えて

写真:橋梁から落下した橋の部品


阪神高速道路公団(現阪神高速道路株式会社)の高速道路について、震災が起こる前から国道43号や3号神戸線は騒音や排気ガスにより地域の環境破壊をもたらすと、地元住民の建設反対運動が起きていたそうです。震災後も住民からの高速道路再建差し止め請求が裁判所に提出されていました。それらの訴訟に対し和解が成立するまでには長い道のりがありました。去年、深江浜にある神戸市東部中央卸売市場で市の担当者や仲卸業者の方から、やまさんは5号湾岸線、3号神戸線、国道43号があるために、この市場が物流のハブの役目を果たしていると伺いました。物流にとって今や高速道路はなくてはならない存在です。それをわずか1年9ヶ月で完全に復旧させた人々の知恵と努力は称賛と感謝に値するものだとやまさんは思います。

 

最後の質疑応答で見学者の男性が「震災の記録を残すのは当時の震災経験者にとって勇気がいることだと思います。ですが、当時の写真や映像などの資料を残すことは大切なことだと思う」と言っていたのが印象的でした。

もっと多くの人に知ってほしい

写真:「鋼連続箱桁橋の中間支点部の変形」

 

「今日家に帰ったら、室内の頭上にある重いものは全部下の方に移動させましょう」と語り部さんが見学の最後を締めくくりました。これは地震の際、室内の落下物による怪我を防ぐ知恵であり、あの震災を経験した全ての人々が今でも実践しているであろう大切な教訓でもあります。

 

現在、震災資料保管庫を数多くの大学機関や土木関係者がバスをチャーターして見学に来るそうです。この日の見学者の中にも鋼橋メーカーの土木技術者の女性が「勉強に来た」とのことで、専門的な質問を色々としていました。

 

地元や周辺の小学生、婦人会の人も訪れるのだとか。やまさんは、是非学校で土木工学や都市計画、建築を学んでいる学生さんにここを訪ねてほしいと思いました。何しろ実際に高速道路の復旧作業に奔走した技術者の方から直接当時の話しを聞くことができるのですから。日頃高速道路を利用しているドライバーや物流業界の人々にとっても語り部さんのお話は大いに参考になるのではと思いました。

 

帰りの車中、運転手の松原さんが「私も震災資料保管庫を見学しましたが、初めて見たときはとてもショックで思わず涙がこみ上げました」とおっしゃっていました。

 

震災資料保管庫に収蔵・展示されている被災した阪神高速道路の構造物は、神戸港震災メモリアルパークに残る被災港湾施設、阪神淡路大震災浜手バイパス被災構造物(橋脚・支承など)メモリアル、須磨海浜公園に設置・展示されている被災水道管、人と防災未来センターに展示されている被災道路構造物、東水環境センターに収蔵・展示されている被災下水道構造物とともに「阪神・淡路大震災による被災構造物群」として2018年度の「土木学会選奨土木遺産」に選定されました。もっとたくさんの人々がこの場所を訪れ、語り部さんのお話に耳を傾けてほしいと思います。あの日を忘れないために。

国道3号神戸線のいま

写真:再建された現在の東灘区深江本町2丁目の阪神高速3号線橋脚。柱は円柱から壁式になり、より強度の高いものに生まれ変わりました。

見学の帰り、東灘区深江本町の横倒しになった3号神戸線の橋梁があった場所を見に行きました。高速道路は電車の線路などと違い、道路上を通過する車両の重量や位置が常に不安定になるため、橋梁や橋脚の設計はとても難しいのだそうです。3号神戸線の復旧工事にあたり、10種類の最新工法が採用され、高速道路のなかでも最も被害の大きかった3号神戸線は、震災発生日から数えて僅か623日後の1996年9月30日に全面開通、神戸を走る物資輸送の大動脈がよみがえりました。

 

【後編】阪神高速道路全線復旧への苦闘623日@深江震災資料保管庫